子守唄の反響ソノリティ

 唐突に鋭い破裂音がして、羅江は目を見開いた。
 鮮血や内臓、筋肉と脂肪が飛び散り、小さな固まりとなって床に落ちる。頬に赤い液体が付いたのを、無意識に拭う。
「あたし、何をしたの……」
 気がついたら彼女は檻の外にいた。足元には曲がった南京錠と、わずかに人の形をしているもの――腕や足が十数個。体からはピリピリとしたものが発せられていて、なんだかそれがひどく不快だった。
 茫然自失している羅江を気に求めもせず、部下らしき男が口を開く。
「はは……本当に欠落種族なんだな。硫酸を入れたにもかかわらず何とも無かったのは、強い殺意だけで人を殺せたのは――ひとえに、お前が化け物だからなんだよ」
 男は羅江には見向きもせず、自分に酔ったように説明を始めた。
「ここでは欠落種族を解剖したことが二度ある。俺はその解剖を手伝ったが、満足な結果は得られなかった。すぐに死んでしまったからだ」
 そして、不気味な笑みを浮かべて近づいてくる。悪意なんてものではなく、言いようの無い変なオーラが、この男から滲み出ている。半径五メートル以内に近づきたくない。近づいたら、このオーラに汚染されそう。そう思わせるだけの違和感が彼にはあった。
「教授を手伝いながら、ずっと思っていたよ。欠落種族を解剖したいとな。今日、やっとその夢が叶うのだよ」
 男はすぐ側まで来たが、羅江は立ち尽くしたまま、ぴくりとも動けない。そして、いとも呆気なく捕まってしまった。

 意識が戻ると、彼女はあまりの眩しさに目を細めた。手術で使うようなライトが、視界いっぱいに広がっていた。嫌な予感に周りを見ると、羅江の両足手首は固定されていた。冷たい器具が四肢を切りつけているようだ。
 そして、台の側にいるのは、両手にメスを持っている白衣の男。鋭利なそれを目の当たりにして、羅江は顔面蒼白になった。
「嫌……」
 無意識に拒絶を表す言葉が口をついて出る。今まで死んでもいいって思っていたけど、本当は死にたくない。羅江の目尻から涙が零れ落ちた。
「――始めようか」
 観念した羅江は目を硬く閉じ、全てを待とうと決めた。しかし、彼女が予想した感覚は訪れず、羅江は思わず目を開ける。そこには、男が訝しげな顔で先ほどの状態のまま立っていた。
 耳を澄ますと、なにやら足音らしき音が聞こえる。目の前の男が、一人では無理だからと助手でも呼んだのだろうか。しかし、その音はひどく切羽詰まっているようで、羅江は首を傾げた。
 そうこうしているうちに部屋のドアが勢いよく開き、派手な音と共に、真面目そうな男が入ってきた。急いで走ってきたようで、息を切らして肩で呼吸をしている。
「原岡!」
「さ、崎本! お前、なんで実験棟に……!?」
「アルバイトがおろおろしていて、聞いてみたら人体実験をしているんだってな。お前、自分が何をやってるかわかってんのか」
 崎本という男は原岡の質問には答えず、ただ軽蔑的な眼で睨み据える。突然の出来事に、羅江の頭には疑問符が飛ぶ。原岡の助手だと思っていた男が、なぜ彼を批判しているのか、全く見当が付かない。
「何をしに来たんだ。理由も無く実験室に入ってはいけないことぐらい知っているだろう」
「この少女を解放するためだ」
 彼はそう言うなり腰を屈め、素早く原岡の腹を殴った。一瞬の出来事だった。
「げふっ……」
 殴られるとは思ってなかったのだろう、原岡は苦痛に顔を歪めた。
「悪いな。だけど、人体実験なんてするもんじゃない」
「こんなことをしてどうなるか、わかってるのか」
 呟く程度の音量の、掠れた声で言う原岡。そんな小さな声でさえ、ここでは大きく響く。
「ああ」
 崎本は駄目押しに、うめく彼の腹をもう一度殴った。すると、原岡はすぐに床に崩れ落ちていく。崎本はそれを横目で見ながら、羅江の手足の自由を奪っていた器具を外した。解放された羅江は台から降り、ちらりと床に視線を向けた。
「あの、この人は大丈夫なんですか」
「ちょっと眠ってもらってるだけだよ。――それより、怖くなかった?」
 そう聞かれると、羅江の心の中の何かが決壊した。緊張が解けて安心してしまい、膝の力が抜けてしまった。涙がとめどなく溢れ、いくら拭っても止まらない。
「ありがとう、ございました。崎本さんがいなかったら……」
「もう大丈夫だから安心して。人体実験なんて、人がすることじゃないよ」
 崎本はそう言いながら、棚に無造作に置かれたカルテを手に取り、何とはなしに眺めた。しかし、次の瞬間、崎本の意識はカルテの中へ吸い込まれた。
「何森羅江……って、羅江ちゃん!?」
「え、何? どういうこと?」
 崎本の様子に、羅江の顔には驚きの表情が浮かぶ。外に出ない彼女には、友達はおろか知り合いすらいないはずだ。
「俺の名前は、――崎本信彦」
 羅江は嘘だと思った。まさかそんなことがあるはずが無い。しかし、頭の中にある“のぶひこ”と一致する記憶は、そのまさかなのだ。
「……のぶひこくん、なの?」
 頷く彼に、まさかが確信に変わる。あの時の面影が残っているものの、もう男の子じゃないんだなと実感できる。突然の再会に、当時の記憶が鮮明に思い起こされる。
 羅江は、昔のことを思い出して感慨にふけりかけて――しかし、頭の中を現実がよぎる。
「信彦くん――ううん、信彦さん。あたし、駄目なの。あたしは普通の人間じゃない」
 羅江は俯いた。幸せに暮らせるはずの彼を巻き込むわけにはいかない。
「それがどうしたんだよ」
 だから、こんな反応を予想していなかった。泣きたい気持ちを堪えると鼻の奥がツンとして、結局涙が出てくる。
「でも、あたし……」
 信彦は、予想外の答えにたじろぐ羅江に笑顔を見せて、そして手を出した。
「行こう、連れていってあげるから」
 そして、彼女は信彦の手を取った。取ってしまった。彼が不幸になるとわかっていたのに……その暖かな眼差しに負けてしまった。
 ――連れていって。お願い。