子守唄の旋律メロディ

 信彦は、駅に行くとすぐに見つかるのではないかと思っていた。しかし、駅は予想以上に混んでいて、背の低い羅江なら滅多なことでは見つからないと安心した。
「信彦さん……!」
 雑音の波の中に自分を呼ぶ声が聞こえて、信彦は後ろを振り返る。見ると、羅江は一つの店に心を奪われていた。
 そこは駅にありがちな土産屋で、吉備団子やピオーネゼリーなどさまざまな食べ物が陳列されている。しかし、羅江の興味の対象は食べ物ではなかった。
「信彦さん、これ可愛い」
 それは小さなクマのキーホルダーで、色によって恋愛運が良くなる、金運が良くなる、などと書いてある。
 信彦はそういう物を見るたびに、ご当地キーホルダーじゃないのにと思うが、このクマだけは素直に可愛いと感じることができた。
「ちょっと待って。財布があったはず、――あ」
 羅江は服のポケットを探ったが、そんなものはどこにも無い。大学にいたときに取られたんだと気付き、羅江は視線を揺らした。
「それくらい俺が出すよ」
 そんな彼女の態度に気付いたのか気付かなかったのか、信彦は自分の財布を取り出した。
「でも、そんな」
 罪悪感と感じるものの、だったら自分が出せるのかというとそうではない。彼は社会人なのだから、これくらいなら出してくれるだろう。そう考えてしまう自分自身に羅江は腹が立った。
「俺に買ってもらうの、そんなに嫌?」
「嫌じゃないけど……信彦さんに悪いじゃない」
 羅江がそう口にすると、信彦は柔らかく微笑んだ。
「そんなこと気にしなくていいよ。何色がいいの?」
「ピンク……」
 羅江はあくまでも信彦に頼りたくないようで、しぶしぶ呟いた。その呟きを聞いた信彦は、ピンクのキーホルダーと水色のキーホルダーを手に取り、さっさと会計を済ませてしまった。
「はい、どうぞ。はは……俺も買っちゃった」
 信彦はお揃いにしたかったとは一切言わず、二匹のクマを揺らしてみせた。

 そのまま店を後にした二人は、人ごみに流されながらも券売機までたどり着いた。羅江が改札を抜け信彦と歩いていると、不意に声が掛かった。
「もしもし」
 思わず羅江の足に力が入る。しかし、走り出すようなことはしなかった。それをしたら余計怪しまれることは彼女にも予想できた。呼吸を整えて、ゆっくりと振り返る。あくまでも、いつでも逃げ出せるように足の力は抜かず。
「落としましたよ」
 白髪の駅員が手に持ったクマを羅江に手渡す。名入れテープの付いたパッケージをポケットにしまいながら、羅江はほっと息を吐いた。大丈夫、この人は自分の正体に気付いていない。
「ありがとうございます」
 軽く会釈をしてその場を後にするし、階段を上ってプラットホームへ出る。窓の向こう側の電線に留まっている雀は、啄ばむように鳴くとさっと飛び立っていった。

 駅にはたくさんの人がいたにもかかわらず、そのほとんどは上りの電車を待っていた。二人が下りのプラットホームで壁にもたれ掛かっていると、静かに電車が滑り込んできた。反対側で待っている人たちが見えなくなる。
 車中は予想通りがらがらで、立っている人はほとんど見当たらなかった。二人は掴まり棒を持って出発を待った。
「ねえ、信彦さんはどうして研究者になろうと思ったの」
 羅江は心持ち首を傾げて信彦を見た。当時の彼は活発で、研究者なんていう堅苦しそうな職業とは無縁だと思っていた。
「俺の母さんは、俺が中学生のときに癌で死んだんだ。だから、癌の治療薬を開発しようと思って。――そんな簡単にできるはずが無いのにな」
 自嘲気味に話す信彦の目は、台詞とは裏腹に強い決意に溢れていて、羅江はふっとプラットホームへ目を向ける。そこにいる人たちの中にそんな強い目をした人なんて――いた!
「の、信彦さんっ!」
 それを見た羅江は思わず信彦に飛びつき、彼の方向を指で指した。白衣を脱いだ男が向こう側のプラットホームにいた。
「早すぎる……」
 信彦は零れる言葉を制御することなく発し、無意識に羅江を守るように包み込む。いや、大丈夫だ、まだ相手は気付いていない。
「大丈夫だよ、羅江ちゃん。ここから離れてしまえばもう安心だから」
 信彦は、胸の中で震える羅江に優しく声を投げかけた。しかし、油断せずプラットホームを注視していると、厳しい表情で辺りを捜し回っている原岡と目が合った。はっとした信彦は瞬間的に目を逸らす。しかし、次に視線を戻したとき、そこに原岡はいなかった。歩き回る人の群れが、餌を探す蟻の大群に見える。
『電車が発車いたします』
 プルルルルという音に続けて、プラットホーム内にアナウンスが流れた。並んだ人たちは、条件反射でこちらに視線を向ける。
 早く発車してくれという気持ち、それだけが信彦の心を占めていた。そのおかげか、アナウンスが流れたと同時にドアが閉まり、電車は進み出した。
 人がいなくなったプラットホームを眺めていると、階段から駆け下りてくる男の姿が見えた。彼は諦めに似た溜め息を吐いて、こちらに視線を向けた。その、じっとりとした蛇のような目に、信彦の背中を冷たいものが流れていった。

 電車が発車して約五分、窓の向こう側の景色が田園に変わる頃、車内に羅江の声が落ちた。
「あのね、あたし、大学にいるときに昔の夢を見たの。お母さんがあたしに唄っていた子守唄……あたしがいつも唄っている唄なの」
 そして、その言葉に手繰られたように記憶が溢れ、羅江は息せき切って話し始めた。夢の中で母が子守唄を唄っていたこと、家に大学関係者が来たこと、母が教授に殺されたこと――。
「あたし、わからない。あの唄……どうして」
「羅江ちゃん」
 泣き出しそうな顔で首を振る羅江に、信彦は優しく声を投げた。
「お母さんが毎日その子守唄を唄っていたから今も覚えているっていうだけじゃないかな。……もしくは」
 言いかけて、信彦は口をつぐんだ。しかし、羅江の続きを促す視線に負け、再び口を開いた。
「もしくは、『欠落種族』に関係があることかもしれない」
「信彦さん!?」
 悲鳴のような羅江の声を聞き、しかし信彦は考えを否定することはできなかった。
「羅江ちゃん、君が見た夢は本当の記憶?」
「…………」
「二十年前、殺人事件があった。犯人は死体解剖の結果人間亜種だと言われ、欠落種族と名付けられた。――彼女は、君の母親じゃないのか?」
 羅江は俯いたままぽつんと呟いた。
「……あたし、知らない」
 信彦は無言で視線を窓の外へ向ける。二人の間にある一歩分の距離が、妙に遠いように思えた。
 ――お互い無言になって十五分ほど経った頃、突然羅江が声を上げた。
「あ、お花畑……」
 見ると、若草色の絨毯はとっくに終わっていて、菜の花の黄色い絨毯が広がっていた。風に揺れてそよぐ菜の花はこれ以上ないほど幻想的だった。
「信彦さん、次の駅で降りない?」
 信彦は外の風景に心を奪われたまま「いいよ」と答えた。