子守唄の最終楽章クライマックス

「ねえ、聴いてほしいの。おやすみなさいの子守唄」
 信彦は突然の台詞に目を丸くし、言葉の意味を理解すると微かに眉をひそめた。彼女はまだ母親の思いに溺れているのだろうか。
 彼の胸中を察した羅江は首を振った。瞳を見ると、毅然とした意志がそこにあった。信彦は思わず圧倒されてしまう。
「お母さんのことと、この唄が好きなことは関係ないの。……頭の中を巡るだけで心地いい唄なんて他に無い」
「――じゃあ、聴かせて。羅江ちゃんが何に囚われているのか」
 羅江は返事の代わりに大きく息を吸い込む。そして、その吸った息と共に音を紡ぎ出した。信彦は、その美しい音色に思わず息を呑む。
 溢れる音に秘められた物哀しさは道行く人の足を止めさせる。雑音の無くなった空間に、混じりけの無い唄だけが響く。
 羅江はただ無心で唄い続ける。募った思いを全て込めて。流れるように大きくなっていく旋律。止まらない――もう、止められない。
 クレッシェンドに次ぐクレッシェンド。アンダンテからアレグロモデラート……もっと速く。
 信彦は縫い付けられたかのように羅江から目が離せなかった。服の裾を握りしめて唄う彼女は、自分の運命を憂いて叫んでいるようだ。しかし、あくまでも音律は優しく穏やかだ。母親が子を思って唄うそれのごとく。
 ――愛してる。
 確かに聞こえたその言葉は淡い泡沫で、彼女の唄の全てだった。信彦は一瞬、母親の胸に抱かれている感覚を思い出した。
「――――……」
 最後の音を響かせ、唄は終わった。目を開いた羅江はほうっと一息吐く。
 その場にいる全ての人が唄の余韻に酔いしれていた。しばらくの静寂。それを破ったのは、さきほど放歌高吟した本人だった。
「……信彦さん!」
 ぱちんと泡が弾けるように放心から覚めた信彦は、笑顔で駆け寄る羅江に言葉を掛けた。張り詰めていた息を吐き、ゆっくりと吸う。
「すごい……すごかったよ」
 言葉にし尽くせない感動は月並みな賛辞にしかならない。自分の感情をうまく表現できないもどかしさが彼の体を動かした。衝動のまま、目の前にいる羅江を抱き入れる。
 羅江は驚きに目を見開いた。信彦は彼女の体が硬直したことには気付かず、掠れた声でささめく。
「羅江ちゃんの唄、すごくよかった。感動したよ」
「本当?」
 彼女は顔を上げ、嬉しそうにほころばせた。しかし、視線がまともにぶつかってしまい、照れ臭さを隠すためにポケットに手を入れる。次の瞬間、その笑顔が凍り付いた。
「信彦さん。……これって」
 羅江はポケットから黒い物体を取り出し、信彦に渡した。それを食い入るように見つめた後、彼は首を振った。
「やられた。発振器だよ」
「あたしがもっと早く気付いていれば」
 ごめんなさいと呻いた羅江は、目に涙を浮かべて俯く。信彦は彼女の肩を優しく抱いた。
「羅江ちゃんのせいじゃないよ。俺だって全然気付かなかったんだから。それより今は――」
 発振器が付いていたとわかれば、いつまでもこの場に留まっていることは出来ない。信彦は辺りを見渡し、様子がおかしいことに気が付いた。突然言葉を途切れさせた彼に、羅江も顔を上げる。そして、二人は絶句した。
 つい先ほどまで騒がしかった路地は静まり返っている。突っ立っている人々の目に意思はなく、ぽっかりと穴が開いているようだ。時は止まっていて、自分たちだけが取り残されている。そんな考えが頭に浮かんだが、信彦はすぐに首を振った。ありえない。
「嫌だ、怖い……」
 羅江はぎゅっと信彦の服を掴む。彼はその上に静かに手を添えた。
 太陽を地平線が遮り、地上の影をも溶かしてしまう。ビルのガラスはもう何も映さない。

「崎本!」
 突然、この場にそぐわない大声が聞こえる。二人が振り反ると、そこにはヘッドホンを手にした原岡が立っていた。
 どうしてという疑問が頭に浮かんで消える。羅江のポケットに発振器があった。疑問に対する答えはそれだけで十分だ。
 羅江の頭の中で大学での記憶が甦る。身動きの出来ない体に突き付けられる、鈍く光るメス。彼女は自分の口が渇くのを感じた。
「……何の用だ、原岡」
 信彦の声色が低くなる。しかし原岡は彼には見向きもせず、羅江を見やった。
「お前に用は無い。用があるのはそこの欠落種族にだ」
 冷ややかな目と視線が合い、彼女はびくんと体を揺らす。ふっと首元を抜けていく風は妙に冷たかった。原岡はオレンジ色の耳栓を耳から取り出し、それには目を向けず地面に捨てる。
「――お前、唄ったな?」
 羅江に悪いことをしたという自覚は無いのに、彼の言い方は彼女を責めている。羅江は原岡の見透かしたような台詞に混乱した。
「羅江ちゃんが何を歌おうと、それは彼女の自由だろう」
 信彦は羅江を庇うように前に出て原岡を睨み付ける。彼の声は震えていて、怒りを抑えていることがわかった。羅江は原岡の目から視線を外す。
「そうか、だったら教えてやろう。……その唄は、欠落種族に伝わる悪魔の唄だ。聴いた者は欠落種族の操り人形となる」
 ――はじめからわかっていたのかもしれない。羅江は腹岡の言葉を聞いても驚かなかった。それよりも、子守唄を悪魔の唄と罵られたことが彼女を不快にした。
「お母さんの子守唄を悪く言わないで!」
 信彦さん、あの唄を聴いたあなただったら、あたしの気持ちをわかってくれるでしょう? 羅江はそう言いかけて、彼の口からこぼれる不明瞭な言葉に気付いた。
「そんな……この唄が……」
 信彦の肩は不自然に揺れている。彼が動揺しているのは、後ろから見ても明らかだった。羅江の目が大きく見開かれる。
「崎本、今ならまだ間に合う。欠落種族に操られるな」
「……嘘よ。信彦さんはこの唄のことを褒めてくれた」
「まだわからないのか? 操られるというのは、お前の望み通りに行動するということだ」
 彼の台詞を理解した羅江は、がっくりと膝を折った。言葉にならない言葉が唇からこぼれる。信彦は、打ちのめされた彼女に駆け寄った。
「羅江ちゃんの子守唄は俺の心を動かしたよ。この感情は操られてなんかいない」
 羅江は何も言わずに首を振る。感情という本人でも把握できない代物の真偽なんてわからない。なぜなら、羅江は自分の唄を信彦に認めてほしいと思ったから。
「一度でも唄を聴いた者は、お前の感情に従って一生を過ごさなければならない。これが悪魔の唄でなくて何なんだ」
 否定は不可能だった。羅江は納得してしまったのだ。自分があの唄を唄ったことで、多くの人の人生を変えてしまったことに。
「――原岡さん」
 羅江は立ち上がり、原岡の前まで歩み寄ると顔を上げた。彼女の意志の宿った目に、原岡は思わずたじろぐ。
「あたしが死ねば、その人たちを操ることはできないんでしょ」
「羅江ちゃん!」
 信彦の叫声を聞いた羅江はそれを黙殺し、原岡の返答を待った。信彦の感情が信じられなくなった今、信用できるのが敵対する原岡だけだということは、なんという皮肉なのだろう。
「……お前、死ぬ気か?」
「あたしは唄の能力なんて知らなかった。でも、あたしは人間とは違うから。あたしは自分がしたことの責任は取れる。唄を聴いた人が元に戻るなら……死ぬことだって」
 原岡は、自分の胸が歓喜に震えるのを感じた。これこそ自分が待ち望んでいたものだった。羅江をうまく唆して警戒心を解けば、欠落種族の生体解剖が実現する。もう失敗は犯さない。
「お前の質問の答えはイエスだ。主を失った操り人形は糸が切れるだけさ」
「そう……。だったら、あたしがすることは決まってる」
 羅江は、原岡が何かを言うより先に、そっと息を吸い込む。子守唄の暗示を自分にかけて自殺する――彼女はその唄なしに死ぬ気は無かった。
 二度目の子守唄は先ほどとは別物のようだった。原岡は自分の思慮が浅かったことに気付き、唇を噛み締める。この唄が終わった後、生きた彼女に会うことは無いだろう。

 ――ラメンタービレ、哀しい子守唄。理由は哀しい運命を持って生まれてしまったから。
 声を潜めるようなピアノはメゾピアノへ。そして、さらに大きなフォルテが響き渡る。
 フォルテ……ううん、もっと強く――クレッシェンド!
 羅江の唄は、もはや子守唄とは言えないほどの激しさを持つ。留まることを知らない感情の波。

 体中でうねる大きなメロディ。その最後の音が響き、堕ちる。自らを殺めるために。羅江の目から涙が、制御されることなく流れ落ちる。
 信彦さん、ありがとう。ごめんなさい。そして、おやすみなさい――。彼女はその唄に自身を任せた。