囚われのお嬢様 01

 久美は時々、幸せとは何なのかと考えることがある。
 一般的に見れば羨ましいのであろう環境が、すべての人にとってそうなのではない。誰であろうと自分の望まぬことを強要されたいはずがない。
 だから、自分は何一つ間違っていないのだ。

 ドアを閉める小さな音に首をすくめ、少女は閑静な住宅街へと飛び出した。出てきた家には見向きもせず、そのまま目的地への道を急ぐ。途中には小さな峠があり、彼女の足は急に重くなる。
 しかし、自らの口から零れる息は荒いものの、勝手知ったる道については既に把握済みで、さほど体力を消耗せず上り切ることが出来そうだ。彼女は、日頃の鬼ごっこの甲斐があるものだとほくそ笑んだ。
 小さな影は東へ伸びながら駆けていく。地面と空から照り付ける熱は皮膚に吸い込まれて雫となる。額にじっとりと汗が滲み、右手が無意識にその水滴を拭う。
 後ろを振り返るも、何もない路地が続いているだけだ。久美は安堵の息を吐き、同時に、つい先ほどまでは聞こえなかった夏の音が、今更になって脳髄を震わせるように鳴り響いた。じんじんと騒がしい波紋が重奏を繰り広げる。
 呼吸を整えた久美は再び走り始めた。待ち合わせまではまだ時間があるが、彼女のスケジュールはそれより早く始まる。見つかってしまえば強制的に引き戻されるに違いない。勝手に部屋を開け、ベッドの布団の中に押し込んだランドセルに気付くような無粋な侵入者がいないことを祈った。

 久美が生まれる十年ほど前は社員も数えるほどしかいなかった彼女の父の会社は、数年前には世間が注目する急上昇企業の仲間入りを果たし、今や一流企業に名を連ねていると言えるだろう。この調子だと、数年後には今の大手を押し退けるまでに成長すると様々なメディアの業界人が論評している。久美は、社長夫人である母親がテレビを見ながら嬉々としていたのを思い出した。
 本来それが身内の出来事なら喜べばいいのだろうが、彼女は肩にのしかかる重圧を感じるだけに、素直に喜ぶことは出来なかった。選民思想の虜となった母親は久美と会話を交わすこともほとんどなく、社交パーティーに参加してはいきいきと談笑しているらしい。そして、父親の顔を潰さないように教育の方針を定められた久美は、今、友達と遊ぶために家を抜け出している。

 待ち合わせ場所の公園はさほど広くない。中を見渡すと、砂場で山を固める幼稚園児たちとベンチで新聞を読む老母がいた。自分の時間を持っていないのは彼女だけだ。どうやって時間を潰そうかと彼女は思案し、ブランコに浅く腰を掛けた。
 久美が身じろぎするたびに錆びた鉄が軋む音がする。何も考えていないかのように目の前の手すりを見つめる彼女は、実年齢と比べると大人びているように見える。
 白い砂はオレンジ色に染まり、きいきいという音と共に長い影が伸び縮みを繰り返す。ふと顔を上げると、見知った少女が久美の方へ小走りで駆けているのが見えた。
「久美ちゃーん」
 思わず破顔した彼女は、もう既に年相応の表情をしていた。続いて公園に入ってくるクラスメイトにも小さく手を上げる。
「久美ちゃん早いね、一番乗り?」
「楽しみで早く来ちゃった。あ、それドッジボール?」
「ボールがあった方がいろんなことができるかなと思って」
 久美はふと自分の格好を見下ろした。広いクローゼットから選んだ勝負服は、自分では動きやすいものを選んだつもりだった。しかし、やはり材質や作りの精工さでは他の少女たちとは随分違っていた。この服を汚して帰ったら怒られるだろうか、と頭の隅で考える。
 と、突然久美の影がそれより大きい黒に溶かされた。
「お嬢様」
 底冷えするような寒さが腹の底から這い上がる。久美が振り返ると、彼女の母親の使用人が立っていた。逆光で顔には暗い影が落ちていたが、彼が眉を顰めているのはわかった。
「何をしていらっしゃるのですか。塾のお時間はとうに過ぎていますよ」
 男の厳しい表情に怖気付きそうになるが、ここで負けたら駄目だと自らを奮い立たせる。分刻みのスケジュールで管理され、友達も切り捨てられた生活を打破しようと、久美は仲のよいクラスメイトに自ら遊びの話を持ち掛けたのだ。
「あなたは私の担当ではないでしょう」
「隆志さんの命令です。涼にお嬢様を任せたのは、やはり時期尚早だったのでしょうね」
 それだけ言って十分と判断したのか、彼は固まって動けない子供たちに向き直り、温和な笑みを浮かべた。
「一人ずつお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか。あと、ご両親の職業も」
 付け加えられた台詞を聞き、久美の肩が大きく震える。視線を受けた少女が口を開くより先に久美は彼の前に回り込み、小さな手で服を握った。
「私が誘ったのよ。みんなは何も悪くない」
「理由がどうであろうと、ご学友のためにあなたの勉強時間が減ったのは事実です。もう少しご自分の立場をわきまえてください」
 結局のところ、彼も久美自身のことは見ていないのだ。彼女の形をした偶像に話しているだけなのだと気付いた。彼の息子はきちんと久美自身を見ているのに、と我知らず比較してしまい、胸の中で失望が広がる。
「わかってくださいお嬢様」
 彼女の憮然とした表情を見て彼は大きな溜め息を吐く。そして、しっかりと久美の目を見つめて口を開いた。
「自由は自分で手に入れるしかないのですよ」

 久美が次の日学校に行くと、前日に会った彼女たちは目を合わせようともしなかった。早くも校内には『空月久美に関わると危険だ』という噂が広まっていたが、彼女がそれを憂うことはなかった。あの一件以来、使用人の息子で進学校に通う高校生を正式な家庭教師として迎え入れ、勉学に打ち込むようになったからだ。彼は以前から父親の職場に付いてくることも多く、久美とは親しくしていたのだ。
 学校なんてくだらない。彼の授業に比べれば、教師の弁は教科書の受け売りを極めた劣化コピーでしかなかった。