紛糾した思い 02

「久美!」
 廊下の奥から自分の父――隆志の声が聞こえ、久美はうんざりとしながら靴紐を結ぶスピードを早めた。しかし、ドタドタと慌てた足音には勝てず、広い玄関に大声がこだますることになった。
「どうして坂田まで出し抜こうとするんだ! お前の護衛のために着替えさせたんだぞ」
「私は受験の合格発表に行くのよ。大袈裟だわ」
 こんな男と道を歩くのは断じて避けたいと思いながら、久美は坂田をちらりと見た。
 黒いスーツにサングラスを掛けている顔なじみの彼は、普段の姿からは想像も付かない。周囲を牽制するためか、普段は着ないような皺一つないスーツを身にまとい、その中には彼の自慢の肉体が窮屈そうに収まっている。彼が悪いというわけではないが、これでは目立ちすぎる。
 久美は、自分がちょっと見るつもりでまじまじと見ていたことを思い出し、ぱっと視線を靴に落とした。瞳に躊躇の色を見せたが、すぐに靴紐を引っ張り立ち上がる。こちらからは見えないが、きっと彼はサングラスの奥で気付いていただろう。
「もう時間がないの。遅刻するわけにはいかないから」
 何か言いかけようとした隆志の言葉を遮り、ドアを勢いよく左右に開けて外へ飛び出した。革靴に履き換えたかったが、家から出るためだ、仕方ない。

 時間がないと言って家を出たが、本当は嘘だ。合格発表は掲示板に張り出されているので、そもそも時間など関係ない。
「久しぶりの自由――」
 大きく深呼吸をし、透明な空気で肺を満たす。ウェーブのかかった髪がふわりと舞う。
 彼女が歩いていると横から声が聞こえ、久美は思わず視線を投げる。そこには大学生らしき二人連れがいた。
「見て見て、これスカイルナの服なんだ」
「本当だ、いいなー。スカイルナの服って可愛いよね」
「ちょっと高いんだけどね」
 嬉しそうに話す彼女が着ているのは久美の父親がデザインした服だった。女子高生や女子大生に人気のスカイルナだが、このブランドをいい年の親父が動かしているなんて、きっと彼女たちは露ほども思わないのだろう。
 知らないということは楽なものだ。久美は彼女らの夢が壊れないことを願い、しかし彼女たちを嘲笑しながら溜め息を吐いた。
 と、久美の目に賑やかな喫茶店が映る。一面ガラス張りになっていて、プライバシーなんてあったもんじゃない。喫茶店にプライバシー保護を求めるのも無茶な話であるが。デザイン重視の店は、そんなことは気にしないのである。もちろん、利用者である高校生たちも、喫茶店にプライバシー保護までは求めていないだろう。
 それとはなしに眺めていると、中にいる人の七割ほどは彼女が受験した高校の在校生だということに気付いた。その学校は制服のデザインで有名だった。
 空から舞い降りた風が頬を撫で、喫茶店の方へ吸い込まれていく。久美は導かれるように喫茶店へ入っていった。

「いらっしゃいませ」
 店員は久美に営業スマイルを向け、彼女が窓から離れた四人席に座るなり、水を持ってきた。ネームプレートには、流れるような筆記体が書かれている。
「ご注文は何になさいますか」
 久美はメニューへと視線を落とし、顔を上げずに注文をした。
「デザート全部」
 彼女の通る声は、小さいながら店中に聞こえ、話し声が一瞬消えた。しかし、久美は向けられた視線を見事に無視し、水を一気飲みした。グラスを勢いよくテーブルに置く。
「え、えっと、確認いたします。栗あんみつパフェ、生アイスクリーム、チョコレートフォンデュ、和風――」
「確認なんていいわ。急いでるの」
 実際そこまで急いでもないのだが、朝食をあまり食べていないので、お腹がすいているのだ。今にも鳴り出しそうなお腹を制止しながらナプキンを弄んでいると、突然後ろから肩を叩かれた。
「ねえ君、今暇?」
 振り向くと、下卑た笑みを浮かべた男が立っていた。ワックスの塗りたくられた茶髪と耳に付いたセンスの悪いピアスを見れば、男の程度が知れるというものだ。二つほど後ろの席からは、無責任な野次が飛んでいる。久美は眉を顰めた。
「全然。私、これからデザートを食べるの」
 ナンパならもう少しましな男を出せと思いながら、出来るだけ低い声を出す。目の前で起こっているやり取りを黙殺したウェイターは、一通りのパフェを机の上に置いた。久美も、このときばかりはサービスが早いのも困りものだと思った。
「そんなこと言わないで俺たちと遊ぼーぜ」
「嫌です」
「すましちゃってー。どうせ、内心天狗になってんだろ」
 久美は、何故この男がナンパ係に選ばれたのか理解した。ピラニアは執念深い。
 彼女はふと男の服の襟に見たことのある代紋が刺繍されていることに気付いた。そういえば、この辺りは柳城会の縄張りだった。この地元の暴力団には堅気の者には手を出さないというような決まりはないようで、規模は小さいものの公共の場所に現れては幅を利かせる程度には厄介だった。
「ちょっと遊ぶだけだって」
「いい加減にして。しつこいわ」
「なっ……黙ってたら付け上がりやがって!」
 馴れ馴れしく肩に回された手を払いのけると、男は顔を真っ赤にさせた。今まで普通の女にこんな扱いをされたことなんてなかったのだろう。
 ヒステリー男が死ぬほど嫌いな久美は、自分が苛立ちを隠すことで精一杯だ。
 パフェが入ったグラスが汗を垂らしているのを見て、久美は心の中で溜め息を吐く。こんなことで時間を潰していたら、パフェはどろどろになってしまう。
「わざわざご苦労様。でも、迷惑なのよ」
「このクソアマ!」
 怒りを隠すこともせず、低レベルな罵倒しか出来ない男を、久美は小物としか思えなかった。殴り掛かってきた男は顔面に栗あんみつパフェを食らい、ばたりと床に倒れた。男の仲間たちは、彼に気付いてどっと笑う。もったいない……久美は口の中で呟いた。
 久美にとって素人の動きを見切るぐらいは朝飯前だったが、さすがにその後のことは考えていなかった。予想通り、男はすぐに立ち上がった。自分の顔がクリームだらけであることにすら頓着していない彼は、目の前の少女しか見えていないようだ。
「てめえ、男ナメんなよ」
 歯軋りをしながら睨み付ける男の視線を、平然とかわす。実際、女が男に勝てるわけがないので、どうしようか考えあぐねているのだが、そんなことはおくびにも出さない。彼はまだ出てこない。もしかしたら始めからいなかったのか、そう考え、すっと背筋が冷たくなった。
 世間知らずというのは恐ろしいもので、久美は『女が男に勝てない』ことを知識として知っていても、それを実感したことがない。周りにいる強い男といえば、坂田くらいのものか。
「黙ってんじゃねーよ、おい!」
 本当に導火線に火が点いてしまったようで、笑っていた仲間たちも顔を見合わせている。久美は黙り込んだまま、スプーンで生クリームの山を崩す。
 その態度が癪に触ったのか、男は久美の胸ぐらを掴んだ。彼女の腰は自然と椅子から浮き、苦しそうに男の手を掴む。
「なあ。そのコギレーな顔、二目と見れねぇようにしてやろうか?」
 と、そこへ割って入ってきた人物がいた。
「まあまあ、落ち着いてくださいよ。こんなところで騒いだら迷惑になりますよ」
「あぁ? こっちは今お取り込み中なんだよ。見てわかんねぇのかよ」
 久美は、内心安堵しながらも、やっと時間ができたと言わんばかりにパフェを食べ始めた。呑気に二人のやりとりを眺めながら、溶けかけたパフェを大急ぎで口に運ぶ。
「ちょっと挑発されたからってぶち切れているようでは血管が心配ですね」
「るせェなあ! 大体、急に出てきて何の用だよ」
「護衛を頼まれているんですよ。うちの大事なお嬢様のね」
 久美は、スプーンを握る手に力を込めた。彼の言うある人というのが誰のことなのかは容易に想像がつく。それを察していたからこそ、ただナンパしようとしただけの男をからかったりしたのだが。
 男はスカイルナの社長令嬢がこの辺りに住んでいるという話ぐらいは知っていたのか、お嬢様という台詞に飛び上がる。そして、言葉にならない悲鳴を残して店を走り出――ようとして、自動ドアに正面衝突した。久美は込み上げる笑いを堪えながら、虚しく閉まったドアを見つめた。
「ごちそうさま」
 パフェを食べ終えた久美は、伝票を持って立ち上がった。
「涼、私はもう行くわ。あと、合格発表は見に来ないで。命令だから」
「かしこまりました、お嬢様。事故に遭わないよう、お気を付けください」
 彼は洗練された動きで恭しく礼をする。その他人行儀な言葉遣いに、久美は形容しようのない焦燥感を感じた。
 彼女は何も言わず一万円札で会計を済ませると、さっさと店を出ていった。