紛糾した思い 03

 なんとなく予想していたものの、学校に着いた久美はげんなりとした。校門をくぐったが最後、どこを向いても人しかいない。
 紺色のブレザーに手を突っ込み、くしゃくしゃになった紙を広げる。無機質な『360』を見つめていると、女の子の弾んだ声が聞こえた。
「あたし受かったよ! 先生に報告するね」
 かと思えば、絶望の声も聞こえる。
「どうしよう、俺落ちてた……」
 彼は不合格だった人のようで、他人事には思えなかった。久美は唇を噛んで俯いた。

 人ごみに流されるがままに進んでいると、合格発表掲示板が見えてきた。しかし、目の前にいる男性のグループが邪魔でよく見えない。必死に顔を出そうと試みるが、背伸び程度では数センチしか変わらない。
「ちょっと……、通してください」
 すると、グループの一人が気付いてこちらに視線を向けた。彼の穏和な顔立ちに、思わず久美はほっとする。強面こわもての兄ちゃんだったらどうしようと思ったのだ。
「あ、ごめん、見えなかった? おい、お前ら合格だっただろ。後ろ行こーぜ」
「ありがとうございます」
 その人に軽く会釈すると、久美は目を伏せ、はにかむように顔を上げた。
「合格、したんですね。おめでとうございます」
「あ、ありがとう。君も合格してるといいね」
 まだ開かない桜の蕾を背景に、男と久美の視線が交差する。しかし、彼の友人の声に目は逸らされた。
「おい、誰だよその子。いつの間に彼女作ったんだ?」
「ちっ、違ぇよ馬鹿!」
 彼女という言葉に顔を真っ赤にした久美は、小さく手を振った彼に、受験表を握りしめていない方の手を振り返した。
 この学校に行きたい。そんな漠然とした淡い思いが久美の心を満たしていた。彼女は見やすくなった掲示板を端から眺め、小声で呟く。
「185、187、188、190、192、193、194……」
 みんなで同じ学校を受験して、みんなで同じ学校を合格する。そんなことをやってのけてしまえる彼らの頭脳が羨ましいと思った。
 もっと勉強していればよかったという上限のない後悔が込み上げる。出来るだけのことはやったが、本当にそれは限界点だったのだろうか。
「353、354、356、357、358、……361」
 自分の番号はどこにもなく、それが当然だと嘲笑うように数字が並んでいた。
「嘘――」
 久美はしゃがみ込み、声を殺して泣いた。普段だったら、こんな格好悪いことなんてするはずがないのに。ついぞ感じたことのなかった、悔しさという感情が久美を叩きのめしていた。

  * * *

 帰路は果てしなく長く、いつまでも家に着けないのではないかと思うほどだった。玄関から帰るのはなんだか後ろめたく、久美は北向きの裏口で靴を脱いだ。
「ただいま」
 一番暗い裏口から入っただけに、使用人も手伝いも気付かなかったのか、廊下には誰もいなかった。そっと階段を上り、自分の部屋に入ろうとしたところで、男の人影が見えた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
 久美は彼を見て、そして、疲れたように言った。
「涼、どうして汗をかいているの。走って家まで帰ってきたんでしょう」
「…………」
 彼はすぐに額の汗を拭い、ばつが悪そうに久美から目を逸らした。久美は自分の体が熱くなるのを感じた。自分の父にも腹が立ち、その父の言いなりにしかなれない涼にも怒りを感じた。
「父に言われたの?」
「――違います、自分の判断です」
 まさか、涼が自らストーカーのような行為をするとは思えなかったのだ。久美はさらに涼に詰め寄った。唇を噛み締め、涙を堪え、頭一個分ほど上を睨み付ける。
「私は家に帰っておいて、と言ったのよ。そして、これは命令とも言った。あなた、自分がしたことをわかっているの? 私は……あんな惨めな姿を見てほしくはなかった!」
 そう叫ぶなり、久美は派手な音を立てて部屋のドアを閉めた。

「藤江、どうしたんだ」
 久美の声は張りがあってよく通る。さっきの叫び声は家中に響いたに違いない。すぐに、他の使用人がやってきた。がっしりした体格に日焼けした肌。スーツを着ているより作業服が似合う彼は、涼の先輩に当たる人だった。
「お嬢様を怒らせてしまいました――」
 涼は項垂れて言った。しかし、坂田はそんなことないさ、と返した。
「久美さんがあんな風に感情を露にするなんて、随分珍しいんだよ。なんだかんだいって信頼されてるんじゃないのか」
 坂田は涼と階段下のソファーに座った。坂田はいつものように足を組む。そうしないと無意識に股を開いてしまうんだと、笑いながら話していたのを思い出す。
「でも、相当俺に素っ気ないし、滅茶苦茶可愛げがないですよ」
 階段付近は予想以上に音が響き、涼はすぐに慌てて階段を確認した。坂田が苦笑しているのが視界に入り、そんな行動をとった自分が恥ずかしく思える。
 とはいえ、久美がさっきの台詞を聞いていたら激怒したことだろう。多感な時期なのだ。
「もし嫌っていたら、十年以上も使用人にしておかないだろ」
「そんな、決定権は社長にあるでしょう? いくら愛娘の頼みでも――」
「藤江、お前社長からは嫌われてるぞ」
 自分が嫌われている自覚はなかったので、涼は言葉を失った。誰だって、自分が雇い主に嫌われているなんて知ったらこういう表情をするだろう。
「社長曰く、『なんであんなガキが久美の周りをうろちょろするんだ』ってな。お前がここにいられるのは、久美さんのおかげだよ。彼女がお前を雇ってるんだから」
 金持ちの金銭事情に詳しくはなかったが、久美の自由になる金が相当額あるというのは知っている。彼女にとって人一人雇う金を出すことは、コンビニで募金をするようなものなのだろう。
 それにしても、自分の雇い主を勘違いしていたとは信じられない、と涼は頭を掻き毟った。すると、久美が怒るのも仕方ないと思った。雇い主でない隆志の命令を聞いて、雇い主である久美の命令に背いたのだから。
「何も知りませんでした。あああ、お嬢様が怒るわけだ……」
「お前らしいといえばお前らしいけどな。まあ、後で謝っておいた方がいいんじゃないか?」
 坂田が笑いながら話していると、すぐ側にある廊下に繋がるドアを誰かが開けた。途端に坂田は立ち上がり、たった今来たように振る舞う。
「あれ、今田も休憩? 俺もさっき来たところなんだよ」
「お前の下手な猿芝居はすぐにわかる。仕事は終わったのか」
「うっ……すぐ行くから勘弁して」
 坂田は手を合わせて頭を下げ、苦笑いで誤魔化した。しかし、今田にそんなものは通用せず、白い目で坂田を見ただけだ。
 窓の外はこの上なく晴れ渡っていて、見事な快晴だった。乾いた笑い声が虚しく響く。
「金もらってるからには真面目に仕事しろよ」
 坂田はそう言い捨て、さっさとドアを閉めてしまった。
「はー、書類の山か。藤江、お前はそういうのがなくていいよなあ」
「いや、ひたすら掃除っていうのも、家政婦みたいで虚しいものがありますよ」
 視線を合わせ、二人は同時に溜め息を吐いた。そして、坂田は書類の山を片付けるために、涼は雑巾を取りに行くために一階へ下りていった。