紛糾した思い 04

 その頃久美は、部屋の中で頭を抱えていた。
「――最悪」
 受験に落ちたからといって涼に当たるなんて最低だ。彼が悪気なんて微塵もなく、ただ心配して付いてきてくれたのはわかっていたはずなのに。
 久美は学校で出会った名も知らない彼と話をしていたことを、隆志に報告されるのではないかと心配していた。彼女の心のどこかでやましい思いが渦巻いていて、なんだか他人に知られたくなかったのだ。彼との会話を父に汚されたくなかった。
「もう、寝てしまおう」
 久美は考えることを放棄し、広いベッドへダイブした。そして、頭まで布団を被って堅く目を瞑った。電線に留まっているらしい小鳥の歌声が聞こえたが、それを楽しめるような気分にはなれなかった。

「お嬢様、もう夕方です。起きてください!」
 気が付くと、久美は涼に掛け布団をひっ剥がされていた。目一杯眉間に皺を寄せ、目を擦りながら起き上がる。窓を眺めると確かに夕方で、真っ黒のビルがオレンジ色に縁取られている。
「何よ……勝手に部屋に入らないでって言ったじゃない」
 安眠を邪魔された久美は自分を起こした本人を睨んだ。しかし、寝起きのため全く迫力がなく、涼は彼女の台詞に呆れた顔を浮かべた。
「さっき聞いたら、いいって言いましたよ」
「あ、だったらごめんなさい」
 久美は簡潔に謝罪し、ライトアップされた家々を見るとカーテンを閉めた。彼女は涼に背を向けたまま口を開く。
「……涼」
「ちょっと待ってください。言わせていただきたいことが」
 涼の言葉の端に張り詰めたものを感じ、久美は彼に向き直るとすっと猫背を伸ばす。そして、彼の台詞を待った。
「誠に申し訳ございませんでした!」
「は……?」
 さすがに土下座はしなかったものの突然頭を下げられ、そんなことは予想だにしていなかった久美は面食らった。
「お嬢様が雇い主とは知らなかったんです。てっきり社長に雇われていたんだと思っていました!」
 久美はよくわからないまま、その勢いに押されて唖然としていた。しかし、冷静になって彼の台詞を反芻してみると、この男はとんでもないことを言った気がする。
「ねえ、私が雇い主って知らなかったって言った?」
 馬鹿馬鹿しいとは思いながら、久美にはそう聞こえた。聞き違いにしても、こんなおかしな間違いはないだろう。涼が否定した後には笑い話になるはずだ。
 久美はそう思ったからこそ、あえて内容を反復したのだ。当然、涼が「何ですか、それ?」と苦笑することを踏まえた上で。しかし、涼にしてみれば恥の再確認でしかなかった。
「はい、……言いましたよ」
「え、何かの冗談でしょう?」
「悪かったですね。自分でも馬鹿だと思ってるんですから」
 涼は顔を赤らめて言うと、唐突に話題を変えた。
「それより、社長がお嬢様のことを心配しておられましたよ。早く向かった方がよろしいのではないかと」
 久美は壁に掛けてある無駄に豪華な時計に視線を走らせた。短針は左下を指しており、長針の先端は左上のほうにあった。
「早く行った方がいいって本気で思ってるなら、先に言いなさいよ」
「本気で思ってないですから」
「……中々言うわね」
 久しぶりに見た悪戯めいた笑顔に、久美は口角を上げた。軽い皮肉のやり取りはとても心地よかった。

「珍しいわね、父さんがこんなところにいるなんて」
 とりあえず水を飲もうとリビングに向かった久美は、そこに隆志の姿を認め、目を丸くした。
 暖房の設定温度が高すぎるのか、部屋の中は妙に暑く、久美は上着を脱いだ。そして、手を差し出す涼の腕にその上着を掛ける。
「久美、お前を待っていたんだ。しかし、いつまで経ってもお前は報告をしに来ない。――だから部屋にカメラを付けておけと言っていたのに」
 平然と口にされた台詞に、久美は背筋に冷たいものを感じた。隆志が父でなかったら、彼は完全にストーカーだ。
「そんなことしたら私は許さないわよ」
「本気にするなよ。ほんの冗談じゃないか」
 その冗談が冗談に聞こえないから怖いのだが、隆志からするとこれは冗談らしい。よって、彼女の部屋にカメラが付けられることはないだろう。久美はほっと胸を撫で下ろした。
 空月家で働く料理人たちは、飯時を前にして大忙しのようだ。厨房からはフライパンや皿の音が絶え間なく聞こえる。
「それで、結果はどうだったんだ」
「涼から聞いてないの?」
 涼は彼女の結果を知っていたし、隆志が問えば答えたはずだ。わざわざ自分に聞く必要はないだろうという含みを持たせ、久美は当て付けがましく言い放った。
「どうして、こんな重要なことを使用人から伝えられないといけないのだね?」
 しかし、相変わらず尊大な態度をとる彼に、久美は露骨に顔をしかめた。
「別に誰から聞いたっていいじゃない。仕事が忙しいのに、わざわざ」
「私は娘の口から聞きたかったんだよ。……もしや、お前」
 彼の視線を巧みにかわす久美に、隆志の顔色が変わる。彼女は鼻で息を吐いた。
「不合格よ」
 そして、彼が知りたがっていた結果を素っ気なく吐き捨てる。余計なことを言われたくなかった久美は、青い顔の隆志が口を開く前に早口で巻くし立てた。
「別に私は高校に行かなくてもいいわ。働くって選択肢もあるのだし」
 呆然としている隆志を見た久美は、自分が出した結果が彼をそうさせていることに罪悪感を覚えた。隆志は声を出さずに二言三言呟くと、ふっと顔を上げる。
「そうか。……悪かったな」
 彼は苦い表情の久美にそう言うと、坂田を連れて部屋を出て行った。