紛糾した思い 06

 久美は朝食を食べ終えると、すぐにリビングを後にした。普段ならリビングと繋がった畳部屋でお菓子でも食べながらのんびりとするのだが、そんな呑気な気分ではない。
 窓の外には曇天の空が広がっている。灰色の雲にはうっすらと白い月が見え、低空飛行を続けるツバメは用水路を行き交う。
 今日は中学校に行かなければならない。――不合格通知を受け取るために。
 担任は彼女の両親に媚びを売ることに熱心で、久美個人に対する関心は全くない。中身のない贔屓はクラスメイトの反感を買うことにしか繋がらなかった。
 久美は顔を洗い、鏡の中の自分と向き合った。彼女は覇気のない目で久美を見つめる。溜め息一つ、洗面所を離れ二階へ上がった。
 ハンガーに掛けられた制服を目の前にかざし、少しだけ感傷に浸る。定期的にクリーニングに出されたそれは、さすがに三年間の経過を感じさせる。楽しかった記憶などないが、思い出の欠片であるこの制服を着るのも最後だと思うと、やはりもの悲しい。
 制服に身を包み、片付けられた寝具に腰を掛け本を読んでいるとドアがノックされた。涼の声が聞こえる。
「よろしいでしょうか」
「ええ」
 返答にドアが開く。涼の隣に隆志が並んでいるのを、久美は視界の端で捉えた。
「何の用?」
 冷たく切り返す久美に、隆志は笑みを浮かべて近付いた。涼に苦々しい視線を送っても、彼が何を考えているかは全く読むことが出来ない。
「ついさっき連絡が来てね、双樹学院に欠員が出たそうだ」
「どういうこと」
 私はその事実を知っているのよ――そう吐き捨ててやろうかなどと考えながら、久美は自分の奥から黒い染みが広がっていくのを感じた。
「補欠合格だ。来週には制服採寸があるそうだ」
 満面の笑みを浮かべ、自分のことのように喜ぶ隆志を見ると、もう我慢は出来なかった。
「ふざけないでよ」
 口の中だけで呟いた台詞は思いの外響き、隆志は予期しない反応に唖然と口を開く。
「私はそんなもの望んでないわ。馬鹿にしないで!」
 言うなり、彼女は隆志を押しのけ部屋を飛び出した。誰かが名前を呼ぶ声が聞こえたが、振り向きはしなかった。

 普段なら気を使って降りている階段も、このときばかりはどうでもいいと思った。ちょうど玄関で掃除をしていた坂田と今田を見つけ、久美はかあっと顔が熱くなる。
「家を出る時間に玄関を掃除するなんて、馬鹿じゃないの!?」
 使用人に八つ当たりをする自分自身が、権力を嵩に威張り散らす暴君にすら思えて、また涙が出そうになる。
「申し訳ありません」
 頭を下げる大の大人二人を見ていると、やはり自分は空月の名前から開放されることはないのかと悲しみに沈む。
 すっかり気を落とした久美は、そのまま玄関のドアを開けた。差別をしない太陽は雲から顔を出し、今日も敗者を照らすのだ。
「お気をつけていってらっしゃいませ」

  * * *

「……ひくっ、うう……」
 すすり泣きが響く教室が、引き戸の音でいっせいに振り向く。そして、久美の姿を認めると、信じられないと目を見開いた後、気まずそうに視線を落とす。
 無言で席に着くと、目を真っ赤に腫らした女子生徒が近付いてきた。涙で潤んだ瞳は憎々しさに燃えている。
「あんたが落ちるなんて、スカイルナのコネも役立たずってこと?」
 彼女はクラスメイトの中でも特に久美のことを嫌っている生徒だ。授業中寝てばかりにも拘らず成績がよく、教師にちやほやされる久美に嫉妬する人は多い。彼女は、久美が品行方正な自分よりもてはやされているのが気に食わないのだろう、ことあるごとに突っ掛かってくるのだ。彼女の悪態はいつものことだったが、これで見納めだと思うと反論するのも馬鹿馬鹿しくなってくる。
「使えないお父様なんだね?」
 いつもなら反撃の一つや二つ返す久美がやけにぼんやりしているので、勢い付いた彼女はさらに言葉を続けた。
「ねえ、どんな気持ち? 自分のわがままが通らなかったのって」
 それが事実と反することも知らず、彼女は久美を罵倒する言葉を心底楽しそうに並べ立てる。周囲の人間は二人の剣呑な雰囲気に気付いていながら、止めに入る気配はない。そんな余裕がないのか、いつものことだと思っているのか、それとも興味がないのか――。
 と、彼女は突如真顔になり、眉間に皺を寄せて久美を睨め付けた。
「あんた見てると吐き気がするのよ。その髪、地毛なんでしょう?」
 その言葉に久美の顔が青くなる。空月家の一人娘として、聞き過ごすことは出来ない言葉だ。彼女は、ただ久美の髪が茶色いことを言いたかったわけではない。
「あんたのお母さん――裕子夫人が死んだとき、泣きもしなかったんだって? まあ当然だよね、だってあんたは――」
「黙りなさい」
 クラスメイトがいる前でそれ以上勝手なことは言わせない。久美の発した一瞬の威圧感に彼女は息を呑む。それと同時に教室のドアが開き、吹き込む寒気が身を震わせた。不快な風だと思った。

「おはよう。さあ、席に着いて」
 場違いの笑顔を浮かべる担任に、久美は溜め息を吐く。
 クラスの生徒は、彼を「いつも明るくておもしろい」と評価するが、何もわかっていないと思う。笑顔の裏で醜悪な彼は、新任で校内の地位が低いのを気にしてか、校長に取り入ろうとあの手この手を使っているのだ。
「みんな、結果は残念だったかもしれない。でも、まだ公立の入試が残っている」
 彼の何も考えていない軽率な台詞に、男子は俯き女子は唇を噛む。そんな生徒の様子に頓着せず、学歴だけは優秀な教師は演説を続ける。
「ここにいるのは、これからの一般入試を共に戦う仲間――いわば戦友だ。いいか、ここで諦めるな。受験は終わってないんだ!」
 公立高校といえども、通う分には何の差し支えもない。私立に拘ることはない――しかし、そんな言葉で気持ちを切り替えられる程度の気持ちではない。第一志望校に落ちたという事実は、本人が思っている以上に心に傷を残しているのだ。
 久美はふと先日会った青年を思い出した。ほんの数秒ほど話しただけの彼は、今頃何をしているだろう。恩師に謝辞を述べているだろうか、それともあの仲間たちと喜びを分かち合っているか、――いずれにせよ、こんな気持ちは抱いていないのだろうな、と久美は思った。
「さあ、羽ばたくんだ諸君!」
 教室を見渡す担任をぼうっと眺めていると、彼は久美に視線を留め、テレビで俳優が演じる熱血教師をそっくりそのままコピーしたかのような笑顔を浮かべた。心底吐き気がした。

  * * *

 家に帰って隆志と顔を合わせたくなかったので、携帯電話を取り出してダイヤルを押す。電話はすぐに繋がった。
『はい。何かご用でしょうか』
 久美が口を開きかけると、機械の向こう側から何かが倒れる音がする。彼女はそっと眉を顰めた。
『し、失礼しました。掃除中で――』
 慌てふためく涼の声を聞き、久美は短く溜め息を吐いて立ち止まった。ホームセンターの安いモップを手にした彼が目に浮かぶ。
「涼、至急『カフェ・アレグレット』まで来て」
 久美がそう言えば、彼は家事を投げてでも指定場所へ急ぐだろう。自身の正しい仕事を遂行するために。
 隆志がその権限を利用して、涼に掃除をさせているのは知っている。自分の使用人が、なぜ隆志の空間を掃除しなければならないのだ。涼を置いているのは自分の意志、金の出資者といえど忘れてほしくない。
『カフェ・アレグレット……ってどこですか』
「ファミリーマートの隣の――ああ、この間変な男に絡まれた喫茶店よ」
 この喫茶店には縁があるのかもしれない。全面ガラス張りはやはり気にくわないのだが。

「あのね、涼」
「はい」
「遠慮しなくていいのよ」
 久美はスプーンですくった生クリームを口へ運ぶ。上品な甘みが口いっぱいに広がり、それに続いてバニラの芳醇が鼻孔をくすぐる。
「はい」
「値段も見なくていいから」
 そして今度はムースを。ふんわりと崩れる抹茶味はほろ苦さを残しつつ舌へ溶ける。
「はい」
 見るからに濃厚なチョコレートフォンデュへとスプーンを伸ばしかけた久美は、その手を途中で止めた。
「もしかして、いらないの?」
「……はい」
 久美は目を見開く。心底意外と言いたげだ。
「昔はあんなに大好きだったのに?」
「それ、何年前の話ですか」
「ええと、私が小学生の頃」
「その頃はまだ高校生ですよ」
 もういい大人ですから、と続け、涼は自分自身におっさん臭さを感じてしまう。かつてはこのような場所でそれなりに騒いでいた彼も、先日この店に入ったときは店内に充満する若者特有の活気に蹴落とされたものだ。
「それで、今日はどういう理由で?」
「暇つぶし。ここのスイーツは絶品だったから」
「それは申し訳ありません。なんとなく今日は気分が優れないんです」
「……え?」
 そこまで会話をして、久美は台詞が噛み合っていないことを理解した。そして、そんな彼女を見た涼もまた、自分が何か思い違いをしていたことを理解した。
「そのおいしいスイーツを俺に勧めようと呼んだわけではない、と?」
「食べたいなら遠慮しなくてもいいけど、そうじゃないわ。……今日、私財布を忘れたの」
 そのときの自分の顔がどうだったのかは表情を見ることが出来ないのでわからない。が、愕然とした顔をしていたのは確かだ。そのときの心情は、かなり情けないことになっていたのだから。
 久美は、自身の発言が誤解を招き、そのせいで涼がこの表情になってしまったことを瞬時に悟った。元々、父にこき使われる涼が嫌で招き出しただけなのだから、言い訳が苦しいのは仕方ないが、慌てて首を振る。
「別に、奢って、なんて言わないわ。ただ、ちょっと立て替えてもらおうと思って」
「それは電話で言ってくださいよ! 一体何品頼んだんですか!」
 慌てて財布を開くが、そこには野口英世が三人並んでいるだけだ。机の上に並べられたパフェグラスの数、十は下らない。
 これは一度家に帰ることは必至だなと、涼は天を仰ぐ。溶けたアイスがずるりと傾いた。