幼馴染は共犯者 07

 時計の針が二時を指しているのを確認した久美は、ベッドからそっと体を起こした。
 寒気を感じ、ハンガーに掛けてあった薄手の上着を羽織る。見慣れたロゴは束縛の証であるが、この際着られればただの服だ。
 唇を舐めて、唾を飲み込む。音を立てないようにドアを開けると廊下へ滑り出た。
 家出をしようなんて考えたのは初めてだった。いや、正確に言うと、家出が出来るなんて思わなかったのだ。この家は、夜中であろうと完全に沈黙することはない。しかし、久美は空月家の娘だ。家の中を歩き回ることをとやかく言われる筋合いがどこにあろうか。
 今まで格子に見えていたものは、よくよく見てみると発泡スチロールでできた陳腐なおもちゃだった。隆志が用意したそれは、久美を精神的に閉じこめるだけのものに過ぎなかった。そのことに久美が気付いた今、隆志の意図は全く機能しない。
「――そうね、涼には言って行こうかしら」
 自分がいなくなったことがわかれば、まず責められるのはきっと彼だ。何も知らないまま隆志の小言を聞かせるのは、さすがに忍びない。久美は階段へ向かおうと出した足を引き、進行方向を変えた。

「はい」
 ノックを三回、応答はすぐにあった。さすが涼だ。
「私よ」
「どうなさいました? 早く寝ないと朝が辛いですよ」
 久美は少し思案して口を開く。
「ちょっとここでは何だから中で」
 隆志の寝室は涼たちと同じ二階にある。廊下で立ち話をしていたらすぐに気付かれてしまうだろう。とはいえ、部屋に入るのを隆志に見られた場合はもっと厄介なのだけど。
 久美の言葉が終わるや否やドアの向こう側がどたばたと騒がしくなり、しばらく経ってからドアが開いた。
「事前に言っておいてくださいよ」
 渋い顔をする涼の脇を通り、部屋へ入った。構造は知っていたが、久しぶりに入ったその部屋にはやはり持ち主の性格が表れていた。
 家具は少なく整然としているが、ごみ箱の中には用済みになったのであろう書類の束が無造作に突っ込まれている。シュレッダーに掛けなくてもいいのだろうかと思ったが、そのようなことを一々指摘するのも面倒であり、そもそも彼女自身にそんな義務はない。
「別に、涼の部屋が片付いている期待なんてしてないわよ」
 押し入れの中には、必要なのかそうでないのかもわからないような彼の宝物が緊急避難しているのだろう。数年前、物を捨てられない性格の彼を見兼ねて、勝手にいらない物を処分したらひどく愕然としていたのを思い出した。
 久美は、涼が昔から掃除片付け洗濯諸々が嫌いだということを知っていた。今となってはそれを表に出すこともないが、それでもやはり、仕事以外で家事はしたくないというのが本音なのだろう。
「で、どうしたんですか。わざわざ勤務時間外に部屋まで来るなんて……何かあるんでしょう」
「ううん、別にそういうわけじゃないのよ。眠れなかったからなんとなく」
 言おう言おうと思っていた言葉は、本人を前にすると喉の奥に詰まってしまった。彼は、きっと自分のことを、受験に落ちたショックで家族から逃げるような人だと軽蔑するだろう。今更取り繕うことなどないと思っていたが、それを想像すると久美の口は重く、開こうとはしないのだ。
 涼はパジャマの裾を握ったまま苦しそうに笑う久美を、冷ややかな眼差しで見つめた。
「お嬢様は嘘が下手ですね」
「――違うわ」
 力なく首を横に振る彼女に、さらに涼は言い募る。
「何年間あなたのことを見てきたと思っているんですか。甘いですよ」
「そんなことない」
 ふいっと顔を逸らした久美に視線を向け、涼は子供にするように頭に手を置いた。
「言ってくださいよ。お嬢様のことは私が一番わかっているんですから」
 その言葉を待っていたかのように、久美の奥底から感情が溢れ出す。無意識に零れる雫は、異変を感じる前に頬を伝い落ちていた。
 何も言わず、涼は彼女をそっと抱き寄せる。すっかり包み込まれてしまった久美は、今まで自分がどれだけ張り詰めていたのか感じさせられた。
「涼、あのね……私、家を出ようと思うの」
 しゃくり上げながらもそう告げると、涼は驚きに軽く瞠目した。それに気付く余裕もない久美は構わず続ける。
「父さんは私を裏口入学させようとしていたのよ。そんなの、誰が喜ぶっていうの。私はもう父さんの影になりたくないわ」
 そうだったのかと涼は合点がいったように頷いた。彼女はすべて知っていたからあんな態度をとっていたのだとわかり、涼は自分がほっと安心していることに気付いた。
 時計の短針がかちりと動く。家のすぐ側を車が通り、カーテンに影が映し出される。
 久美が俯いていると、頭上から声が降ってきた。穏やかな、何も気負っていない声。
「逃げたらいいじゃないですか」
「――え?」
 予想外の台詞を耳に入れた久美は、つい先ほどまでの思い詰めた表情を崩した。ぱっと顔を上げると、今まで見たことのないほど真剣な涼の表情があった。
「家から逃げたいのでしたら、逃げたらいいのです。私がお力になりましょう」
 同じことを繰り返す涼に、久美はついに自分の耳がおかしくなったのではないかと疑った。本来なら彼は久美を止めこそすれ、煽る立場ではない。
 それでも責任を丸投げするのは申し訳ないから伝えようと来たのに、この状況は久美には理解不能だった。
「どうして……私は一人で出るわ。あなたまで巻き込む気はない」
「お嬢様がいなくなった私に、社長は何を望むというのですか」
 久美がぐっと黙り込んだのを見て、やはり自分は隆志に疎まれていたのだと涼は思った。それでもいいと心の中で首を振る。それが彼女を連れ出す免罪符になるのであれば。
「それに、お嬢様はわかっていないでしょうが、この家はそう簡単に抜け出すことが出来るほど甘くはないですよ」
「私でも一筋縄ではいかない?」
「あなただからこそです」
 彼女は自分の価値を知らない。スカイルナという組織の規模を、頭で理解していても肌で感じていないからだ。会社一つを統べる者には敵が多くいる。彼らが定石を踏もうとすれば、自ずから対象はその愛娘へと移る。そんな危険性をわかっている身内は、だから彼女から片時も目を離してはならない。それは家の中においてもである。
 しかし、それを説いたところで久美が理解することは出来ないだろう。そして、自身もそれに背くことになるのだと涼は知っている。
「私でしたら、きっとあなたを逃がすことが出来るでしょう。――どうか、お申し付けください」
 そう言い、流れるような所作で跪いた涼は、そのまま主人の命を待つ。彼の行動に目を見張った久美は、しかし次の瞬間ふっと表情を緩めた。
「わかりました。涼、私がこの家を出る手伝いをしなさい」