幼馴染は共犯者 10

 夜が更けると急激に気温が冷える。満ちた月の明るい冷光が窓から差し込み、暗い廊下を照らす。そして、ぼんやりと光を受ける赤い絨毯の上を、黒い影が足音を立てることなく横切っていった。
 久美は大きなスーツケースを持ち上げた体勢のまま部屋の前に立つ。赤いワンピースに薄い上着を羽織っただけという装いだ。
 今日はノックをしない。すぐにドアが開き、涼は何も言うことなく彼女を部屋に招き入れた。涼も普段とは違い、スーツの上に灰色のコートを着込んでいる。
「ジャスト一時。時間通りね」
 久美は大きく息を吐き、スーツケースを床に置いた。口から淡く白い息が漏れ、空中に霧散する。それを見てエアコンを付けた涼は、スーツケースを眺めながら眉間に皺を寄せ、ためらいつつ尋ねた。
「荷物って……これ全部ですか?」
「ええ」
 体の半分ほどの大きさのスーツケースを久美が開くと、そこには何着もの衣類、上着が整然と詰め込まれていた。
「これでも最小限にしたのよ」
 涼はげっそりとした表情でスーツケースを眺める。彼女の最小限とは準備万端の旅行レベルなのだろうか。
「少なくとも、ドライヤーは必要ないと思います」
「でもそれは」
「髪は切ったじゃないですか」
 言い訳をする隙も与えない彼に、久美は言葉を詰まらせた。ファスナーに付けられた大量のストラップに目をやり、涼はさらに言葉を続ける。
「それに何ですかこれ。こんなにストラップなんていらないでしょう」
「ジュースのおまけよ。頑張って全部集めたのに」
 涼は、いつか久美のゴミ箱から大量のペットボトルが出てきたことを思い出した。普段はゴミ箱の中身を詮索したりはしないのだが、このときばかりはどうしようかと頭を抱えたものだ。結局当時の彼は久美に詳細を聞くことはできなかった。
 涼はしばらく彼女を見つめて溜め息をついた。久美と接する上で大切なことは、退かない構えではなく譲歩するように見せて上手く誘導する巧みさだ。
「スカイルナの新商品だそうです。お嬢様のお気に召すかと思って用意したのですが」
 涼はそう言って薔薇のロゴが入った小さなウエストバッグを取り出す。スカイルナが売っているのは洋服だけではないのかと感心しながら、久美はバッグを覗き込む。
「デザインはいいけど、全然入らなさそうね」
「あんまり入れると重いでしょうし」
 久美の皮肉を意に介した風もなく、涼は飄々と返す。
「服は出てから買えばいいんです。携帯、財布、最低限のものだけ入れてください」
 彼女は涼の意図にようやく気付いて黙り込んだ。久美が大量の荷物を持ってくること、それに対して正面から「荷物が多すぎるから減らせ」と言っても聞き入れないこと、それらを全て見越した上で、涼は彼女の趣味に合うようなバッグを用意していたのだ。そして、その大きさを口実に荷物を減らすよう促すという魂胆だったのだろう。自らが手のひらの上で転がされていたことを知った久美の冷たい目に、涼は視線を斜め上へ逸らす。
「わかりましたよ。ストラップは一つだけ選んでください」
「えー……ストラップくらい、いいじゃない」
 それは妥協と言えるのだろうか。釈然としない気持ちは不満げな声となって彼女の口から漏れ出た。
「少しくらいが駄目なんです。これ以上は譲りませんよ」
 これでも、基本的には合理的で頑固な彼にとっては大きな歩み寄りなのだろう。涼が腕を組んだままそれ以上何も言わないのを見て、久美は彼を説得することを諦めた。緩慢な動作でストラップを外し始める。
「これは中々見つからなかったものだし、こっちは坂田さんが買ってくれたものだし……」
 先日涼が物を捨てられないことを心の中で嘲笑していた久美だったが、結局のところ彼女も物に入れ込んで捨てられなくなるタイプなのだ。そのことに思い至り、久美は溜め息をついて薄い笑みを浮かべた。確かに、些細な思い出一つで物に執着する姿は滑稽に見えるだろう。
 いつまで経っても煮え切らない久美に、涼は無責任な言葉を投げた。
「そんなものは直感で選べばいいんです」
 彼のいい加減な台詞が妙に久美の癇に障り、彼女は思わず言い返す。
「あなたも人のことは言えないわ」
「部屋は片付けました」
 間髪を入れず返ってきた台詞に、久美は弾かれたように顔を上げ、部屋を見回す。私物が消え、生活感のなくなった部屋に彼女は絶句した。久美が戸惑いの目で涼を見つめても、彼は穏やかな笑みを浮かべるだけだ。
「立つ鳥跡を濁さずと言うでしょう。私がこの部屋に戻ってくることは二度とありません」
 久美はハッと気付いた。
 隆志の目から見たら、涼は社長令嬢を唆して誘拐しようとした犯罪者だ。この脱走の共犯者が発覚した時点で、涼は空月家を追放されるに違いない。
 チャンスは一度しかない。いい加減な気持ちで行動するわけにはいかないのだ。
「…………」
 久美はストラップの束に視線を落とした。
「私、これにするわ」
 久美が選んだストラップは、黒猫がティーカップに入ったデザインのものだった。彼女はそれを上着のポケットに押し込み、残りのストラップはスーツケースの荷物の上に無造作に放った。そして、スーツケースの中から財布を見つけるとバッグに入れる。
「行きましょう」
 室内は既に暖かくなっていた。涼がエアコンを切るのを見やり、久美は立ち上がる。入ってきたときよりも軽い荷物を持って彼女はドアを開けた。