箱庭からの逃路 11

 久美と涼は板が軋まないよう気を張りながら階段を降りた。絨毯の赤は深く暗く、二人分の足音をいともたやすく消してしまう。
 踊り場の窓から白い月光が差し込み、濃い影が階段に落ちた。それは軽く揺れる彼女の髪を細部まで忠実に映し出す。久美は肩に掛かる髪にそっと触れた。
 階段を降りるとリビングから光が漏れ出ていた。玄関に行くにはリビングを通らなければならないのに、これではせっかくの計画があえなく潰されてしまう。こんな時間に誰だろうと久美は眉を顰めた。
「いやー、さすが坂田さんっすねえ!」
 坂田を褒めそやす男の声はどこかで聞き覚えがあった。しかしその言葉遣いは、一大企業の社長の邸宅で使われるものとしてふさわしいとは言えない。久美は開いたドアからこっそりとリビングを窺う。その後ろから涼も中を覗き込む。
「TRESSION社なんて大手じゃないですかー」
「あんなキレイそうな会社も密売に手を出すんすねえ」
 二人の位置からでは後ろ姿しか見えなかったが、彼らは坂田の直属の部下だった。公的に隆志の秘書である今田と違い、坂田の社内での地位はそれほど高くない。普通の業務をするのには向いていない坂田は特別な部署を任されているらしい。その仕事内容について詳しくは教えられなかったが、たまに従えている部下や彼自身の服装から想像は付いていた。それでも、彼らの口から当然のように出てきた言葉は理解しがたいものだった。
 ――密売。
 歯軋りの不快な音が久美の脳の奥に響く。涼は、目の前に佇む体が強張っていることに気付くと、彼女を案ずる声を掛けた。
「大丈夫ですか、お嬢様」
「涼は……知ってたの?」
 微動だにせず固い声で問う久美に彼は曖昧に返した。
「まあ、一応。詳しくは知りませんが」
 それ以上の追及を拒否するように、彼は久美から少し身を離す。その語尾をどんという音がかき消した。
 勢いよく猪口をテーブルの上に置いた坂田は得意げに足を組む。
「TRESSION社の社長は美術品に目がないと聞いていたからな。ちょっと誘ったらすぐに傾いてくれたぞ」
「ちょっとって、坂田さんはそれが上手いんですよー」
 そう言いながら部下の一人が席を立ち、一升瓶を両手に坂田の方へ近付いた。渋いラベルの貼られた瓶から注がれる黄味がかった焼酎が猪口を満たしていく。最後の一滴を響かせて瓶を立てた男に、坂田は猪口を上げて応じた。
「おう、すまんな」
「この人も上手いですね」
 坂田の満更でもなさそうな言葉を聞いた涼がぼそりと呟いた。
「それにしても、盗品なんて買ってどうするんすかね。身に付けられないのに」
 席に座っていた男は椅子を後ろに傾けて足を揺らす。坂田は片眉を上げて部下を見やった。さすがに好き勝手しすぎだ――瞳に映し出される非難の色に、男は慌てて頭を下げる。
「あ、すいません」
 坂田はそれに無言で頷き、何事もなかったかのように会話を再開した。
「買ったものはどこかにしまって一人で眺めるんじゃないか? 金持ちには独占欲の強い人が多いからな」
「理解できないですねえ」
 男たちは足を投げ出して肩をすくめる。
「まあ、そういう人のお陰で俺たちの仕事は成り立っているんだよ」
 坂田の言葉を聞いて、男が思い立ったように身を乗り出した。「俺思ったんですけど」と息巻く。
「金を儲けるならクスリとかでもいいんじゃないですか? 何も美術品に限定しなくても」
「ばーか、俺たちは金儲けのためにやってんじゃねえよ」
 ふんと鼻を鳴らした坂田は彼の提案を一笑し、大きく酒を煽った。
「クスリなんて雑魚しか釣れねえだろ。ああいうのに手出すと後々面倒なんだよ」
 坂田は豪快に笑い、嘲りを含んだ声で話す。その説明に男はへえと感嘆の声を漏らした。
「そういえば、双樹学院はなかなかの上客っすよねー」
「ああ、あそこは今田の出身校だったから、奴もいろいろサポートしてくれたしな」
「そういえば、新年度の理事会でも競りをするらしいじゃないですか。中間搾取もいいとこですよ」
「だから言ってるだろ。俺たちの目的はそこじゃない」
 口を尖らせて不平を漏らす男を、坂田はうんざりとした口調で諌める。彼の台詞から苛立ちを嗅ぎ取ったもう一人の部下は、坂田の溜め息をかき消すように話を続ける。
「でも、双樹学院はそんな大々的にやってるのに、警察にバレないんすかね」
「経営そのものに後ろ暗いところはないからな。だからこそ、毎年多くの資産家がこぞって子供を受験させる」
 あくまでも、学院は彼らの払う学費を基に経営を行っている。その目的が教育以外のものであろうと、外から見ればそう見えるのだ。理事会の中で行われる競売による利潤は、学院とは全く関係のないものとして幹部の手に渡る。
 酒で口が滑らかになっている坂田はさらに話を続ける。
「双樹学院の卒業生はいろんな分野で活躍してるだろ。誰だって母校に対する愛ってもんがあるからな」
 網のように張り巡らされた上下左右の繋がりは、結果的にスカイルナの立場を固定し安定させるために機能する。最初のリスクは高いが、軌道に乗りさえすれば、目に見えないコネは何よりも強い武器になるのだ。
 久美は唇を噛み締め、涼は苦い顔を隠すこともせず、二人はリビングを眺める。互いの表情は見えなかったが、何を考えているかは手に取るように理解できた。

 坂田たちの会話は既に別の話題に移っていた。取り留めのない談笑は留まることもなく、ただ耳を抜けていくだけだ。
 久美は振り返り、胡乱な目で涼を見上げた。褐色の瞳が揺れる。その双眸は不安定で危うい魅力を宿し、涼は吸い込まれそうになる自分を押し留めた。さっと目を伏せた彼女の口から、ぽつり、言葉が落ちる。
「親にとって子供って何なのかしら」
 彼らにとって、子供は自分の目的のための手札に過ぎないのだろうか。久美の胸中の黒いしこりは単純な疑問として口から零れる。茶味がかった睫毛はリビングの光を受けて微かに震えていた。
 涼は何も答えない。久美も答えを望んではいなかった。
 椅子の足が床を擦る音がリビングに響く。坂田は立ち上がり、椅子の背に掛けた上着を羽織ると卓上の鍵を手に取った。その間に二人の部下は机に広がった瓶をビニール袋に並べる。
「取引の時刻は何時でしたっけ?」
「二時半だ。商品の受け渡しだけだから、お前らは来なくていいぞ」
「坂田さん、飲んでませんでした?」
「ノンアルコールだ」
「思いっきり芋の臭いしましたからね!?」
 そんなやり取りをしながら、複数の足音が玄関の方へ遠ざかる。そのとき、踊り場の窓のカーテンが不自然に揺れ、床に薄い影が落ちた。久美は咄嗟に涼の手を引いて踊り場の死角まで下がる。
「お嬢様?」
「誰かいた」
 戸惑いの混じった涼の呼び掛けに端的に答え、久美は彼を奥のトイレに押し込んだ。生ぬるい視線が絡み付いた冷たい夜風が首筋をなぶり、途端に感じる悪寒に彼女は身を震わせる。
 ドアが閉まったのを確認した久美はすぐにリビングへと通じる扉も引く。ノブを軽く引いただけのつもりだったが、その瞬間に隙間風が通り、ドアの閉まる盛大な音が一階中に響き渡った。
 久美は顔をしかめたが後の祭りだった。涼のことを考えると逃げるわけにもいかず、久美は扉の前に立ってトイレへの通路を塞ぐ程度のことしか思い付かなかった。