箱庭からの逃路 12

 人の気配など微塵も感じさせずにドアがゆっくりと開き、警戒心を体中に張り付かせた坂田が顔を覗かせる。彼は、ドアの前にいるのが久美だと気付くと安堵の息を吐いた。
「久美さんだったんですか……」
 早鐘を打つ心臓を抑えながら、久美はさりげなく上着を掻き合わせて腰のバッグを隠す。そして微笑を浮かべて偶然出会った風を装った。
「ちょっと寝付けなくて。坂田さんはどうしたの?」
「すいません、うるさかったでしょう。俺たちはこれから出かけるんで」
 坂田は軽く謝罪して、車の鍵を指で回した。このまま何も言わずに見送ったほうがいいと知りながらも、久美は先ほどの会話について問う衝動を抑えられなかった。おずおずと口を開く。
「密売って……」
「ああ、さっきの聞こえてました? スカイルナは若い企業なんでね、手札は多い方がいいという考えですよ」
 坂田の言葉に犯罪をしている疾しさはなく、ただ淡々と実情を述べているだけだった。綺麗事だけでは企業経営はやっていけない。どこの業界でもやっていると久美は自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。
 そして、その貸しの一つが双樹学院にあったということなのだ。彼女は顔に諦念を滲ませて言葉を落とす。
「それをネタにして私を双樹学院に入学させるよう言ったのね」
「――知っていたんですか」
 坂田は彼女の台詞に軽く目を見張ったが、すぐにその色を消すと目を伏せた。
「まさか、あなたが落ちるとは思いませんでした」
「それは私がスカイルナの社長令嬢だから? 私の名前を書けば、スカイルナに負い目がある双樹学院が合格させるはずだと思ったから?」
 抑揚のない声で矢継ぎ早に問い掛ける。坂田は視線を左右に彷徨わせて言い淀んだ。
「そういうわけでは……」
「まあ、あなたたちは正しかったということよね。学院は私を補欠合格にしたのだから」
 落ち着き払った様子で言葉を続ける久美の射るような視線に彼は目を逸らした。坂田のバツの悪そうな表情を見て彼女は溜め息をついた。
「この話はやめましょう。――そういえば、父さんは今どこにいるの? 部屋に戻るときに鉢合わせしたらまた何か言われるわ」
 久美は追及を打ち切り、さりげなく情報を探る。話題を変えられた坂田はほっと表情を緩めた。
「豊さんが来ていましたからね。彼の部屋で飲んでいるんじゃないですか」
 豊が以前使っていた部屋は今は空き部屋になっている。今田、涼、坂田と並んだ隣の部屋だ。てっきり隆志はいつものように仕事部屋にこもっているのだと思い込んでいた久美は、だからこそ、そこから遠い涼の部屋に集まることに決めたのだ。しかしそれは予想以上に危険な綱を渡っていたのだと気付き、彼女は心なしか手のひらが汗ばむのを感じた。その手をぐっと握る。
「そう、豊さんが来ていたのね」
 彼女の発した言葉は重い空気を纏っていた。外面的には久美の母である祐子の使用人だった豊に対して、彼女はあまりいい印象を持っていない。それはかつて自分の目論見が邪魔されたことにもあったが、一番はその主の存在によるところが大きい。
 久美を快く思わない祐子と、あくまでも祐子の側に付く豊に対して、彼女はどう距離を取っていいかわからなかった。仲が良いとは言い難い母子関係は彼女の出自を考えれば仕方のないことではあったが、坂田としては三人の微妙な関係にやきもきしていた。
 玄関から届く部下の男たちの会話は暗澹の立ち込める沈黙に飲まれる。久美はふと暗い階段に視線をやった。先ほどの気配は何だったのか、そこには誰もいなかった。
「久美さん」
 坂田はぼうっと階段を見上げていた彼女に声を掛ける。怪訝な表情で振り返った彼女を見つめてしばらく思案していた坂田はおもむろに口を開いた。
「俺は社長の部下であり個人的な恩もあるので、基本的には社長の命令に背くようなことはしません。でも、双樹学院のことを知っている俺としては、久美さんがあそこに行かなくてよかったと思っています」
 一つ一つ丁寧に言葉を選んでそっと口に乗せる。彼は嘘がつけない人間だ。
「……そう」
 そのぎこちない話し方に、柔らかな微笑と素直な謝辞が口の端から零れる。
「ありがとう」
 彼はその反応に虚を突かれたように数度瞬きをする。そして彼女の表情をしばらく見つめ、坂田は先ほどの自分の台詞を思い出した。
「あっ、俺はそういうつもりで言ったわけじゃなくて……いや決してふざけたわけじゃないんですが……」
 柄にもなく真面目な言葉は思い返してみるといやに小っ恥ずかしい。
「あー、その、――そう、トイレ! 俺トイレ行こうと思ってたんです」
 彼は動揺を露にして、必死に違う話題を探す。そして彼が視線を留めたのは、久美の向こう側にある白塗りのドアだった。
「トイレってお手洗い……あ、駄目!」
 しかし、坂田の苦し紛れの台詞は彼女にとっての地雷だった。咄嗟に機転を利かせた久美は、腹部を押さえると苦しそうな表情を浮かべて床に座り込んだ。
「私、気分が優れなくて……譲ってくれない?」
 その行動は久美の想像以上に効き、坂田は狼狽した様子で彼女に駆け寄った。
「大丈夫ですか? 社長をお呼びしましょうか」
 俯いてカーペットを睨み付けていた久美は彼の言葉に目を剥く。冗談じゃない。
「私は大丈夫」
 彼女は強い語調で言い切ったが、坂田はなおも食い下がる。
「いや、でも――」
「本当に大丈夫だから。お願い」
 健気に苦痛に耐える様子を繕ったまま、久美は顔を上げて坂田の瞳をじっと見る。彼女の切羽詰まった表情に気圧された彼は渋々頷いた。
「わかりました。明日の学校はお休みになってくださいね」
「ええ。坂田さんは向こうのお手洗いを使ってくれたらいいから」
 彼女はそう答えて坂田を見つめたが、彼は立ち去る素振りを見せない。トイレに入るまで見届けるようだ。心配している気持ちはひしひしと伝わってくるが、この状況においては非常に厄介だ。とはいえ、その程度のことを無碍にするわけにもいかず、彼女は仕方なくドアノブに手を掛け、するりと体を滑り込ませた。
 トイレに入ると芳香剤の匂いが鼻を満たす。部屋の隅で細く直立していた涼を見て、久美は目を丸くした。どうやら、会話を聞いていた彼なりに死角に隠れようとしたらしい。
 広いトイレは久美が加わってもまだ十分な広さがある。すぐに出て行くわけにもいかず手持ち無沙汰になった彼女は、何をするともなしに室内を歩き回り部屋を見渡す。
 入り口の上部にあるカーテンの掛けられた棚にはトイレットペーパーの換えが積まれている。次に彼女は奥の窓に目を付けたが、ストッパーの付いた外開き窓は人がくぐるには小さすぎる。結局、入ってきたドアから出るしか道はないということだ。彼女は小声で囁いた。
「どうしよう」
「しばらく待ちましょう」
 そうしているうちに時は刻一刻と過ぎていく。久美は所在なさげにポケットからストラップを取り出し、しばらく見つめた後しまい込む。その顔には焦りの色が濃く浮かんでいる。
「まさかとは思うけど、坂田さん、私が出るのを待っていたりしないわよね?」
「……まさか」
 しかし、そう言った涼の顔は強張っていた。彼女は目を閉じて脱力の溜め息を吐く。しかし、すぐに何かに気付いたようにはっと顔を上げると、瞳を輝かせて涼を振り返った。
「そういえば、私たちの会話は聞こえていたのよね?」
「ドア一枚程度なら会話なんて筒抜けですよ」
「なら、こうすれば……」
 物は試しにとドアに耳を当てると、彼女の予想通り、その向こう側から微かな声が聞こえた。久美の口角が上がる。
「涼、声が聞こえるわ」
 彼女がそう言うと、涼は無言でトイレの奥へ近付き窓を細く開けた。すると、やかましい車のエンジン音に混じって人の話し声が耳に届く。
「車が行ってしまったら出ることにしましょうか」
「えーえ、そうね! わざわざドア越しに聞き耳を立てる必要なんてなかったんだわ」
 飄々と提案を告げる涼に、久美は頬を膨らませた。