箱庭からの逃路 13

 トイレから出た二人は電気の消えたリビングを抜けた。開けた空間はやけに肌寒く、久美は身を震わせる。
「大丈夫ですか」
「平気よ」
 広い玄関は暗く、外の照明が微かに入ってくるだけで、互いの表情はおぼろげにしかわからない。冷たい床を忍び足で歩を進め、二人は立ち止まった。
 目の前には大きな引き戸がある。久美ははやる心を抑えようとするが、飲み込んだ唾液が喉を通る音はやけに大きく頭に響く。シューズラックから走りやすそうな靴を選び、彼女は緊張した面持ちで玄関に手を掛けた。
 瞬間、けたたましい警報が耳をつんざいた。家中が目覚めるような高音に二人はびくりと体を震わせる。久美は上ずった声を上げて涼を振り返った。
「どういうことよ!?」
「どうって、どうもこうもないでしょう! 行きますよ!」
 涼も声を荒らげて玄関に駆け寄る。こっそりと家を抜け出すという当初の予定とは違ってしまったが、ここまで来たら仕方がない。
 涼は勢いに任せて玄関を開けようとしたが、スライドドアはびくともしなかった。警報と連動するようになっていたのかと思い至り、涼は舌打ちをする。
 彼は瞬時に家の間取りを思い浮かべる。ドア越しに聞こえた坂田の言葉が正しいのであれば、隆志と豊は二階の空き部屋にいる。その部屋の近くには、正面玄関へ直通している階段と裏口へ繋がる階段の二つがある。そのどちらから下りてきたとしてもまず鉢合わせしないのは――
「こっちです」
 涼は久美の手を引いて応接間に入り、鍵を閉めた。そして一人用のソファーを持ち上げ、窓に向かって何度も振り下ろす。三度目の衝撃で、窓ガラスは燦然たる硬質な音と共に粉々に崩れ落ちた。
「なっ……」
 言葉を失う久美を気にも留めず、涼は窓に残った残骸を靴で蹴り付けて桟から下を覗き込む。
「お嬢様も靴を履いてください。私が介助するので、ここから外へ行きましょう」
「え、ちょっと涼」
 咄嗟に口をついた言葉は彼女の焦りを如実に反映していた。逃げなければならないということはわかっているはずなのに、うまく思考が追いつかない。
「話は後で聞きます」
「でも」
 彼女はなおも言い募ろうとしたが、部屋の外で大きな足音が響き渡り、はっと息を呑んだ。
「久美はどこに行った!」
「どこにもいません! 二階は探したのですが――」
 ドア一枚を隔てた会話に久美の顔が青ざめる。窓際から久美へと歩いた彼は、立ち尽くす彼女の腕を軽く引いた。
「早く」
 そして涼は素早く窓から飛び降り、軽く背伸びをして窓辺へ手を伸ばす。久美は一瞬ためらったが、すぐに窓に足を掛けると涼に飛び付いた。栗色の髪が夜風に踊る。
「あちらへ」
 植え込みがあるので直接見えることはないが、玄関と二人の場所は目と鼻の距離だ。久美たちには開けられなかったドアも、家主には容易に開けられるだろう。二人は足音をさせないよう気を遣いながら、北側へ走っていった。

 空月家には二つの門がある。南側にある堂々とした豪華な門と、北側にひっそりと佇む裏門だ。涼の指示で後者の門に辿り着いた久美は、急いで柵を押す。しかし、鉄製の柵は無情な音を立てて揺れるだけだ。
 見ると、門には無機質な鍵穴が付いていた。久美は周辺の塀を見上げるがその高さはゆうに三メートルはあり、いかに隆志が防犯性を意識しているかが窺える。それが外に対してなのか内に対してなのか、彼女には判断が付かなかったが。
「こんなところにまで……」
 じわりと滲む汗を拭った久美の口からは焦燥感に満ちた声が漏れる。涼は正門の方向を指差した。
「向こうに回りますか?」
「いいえ、きっと誰かいるわ。越えましょう」
 横格子に足を引っ掛けて上ればなんとか越えられるかもしれない。久美は意を決して柵を両手で掴み、片足を上げた。
 と、背後からドアの開く音がした。金属の擦れる小さな音が静かな庭に落ち、波紋を広げる。
「お嬢様じゃないですか」
 振り返ると、裏口のドアにもたれ掛かった今田の姿があった。彼はいつもの冷ややかな視線で久美を眇める。門の前で立ち尽くす二人はさっと血の気が引くのを感じた。
「こんなところで何をしているんですか」
 その声に驚きの色はない。久美は今田に駆け寄ると慌てて弁明を試みた。
「あの、これは違うの」
「何が違うって言うんですか」
 呆れの滲んだ声で鼻白む彼に、久美は肩を落とす。こんなところで望みが絶えるなんて。
 駄目押しとばかりに、南側から二人の男の声が耳に届く。家の防犯設備に自信があるのか、隆志と豊は余裕のある様子で会話をしている。
「そういえば、藤江はどうしたんだ。まさか、あいつが久美を連れて行ったなんてことはないだろうな」
「部屋にはいませんでした。否定したいですが、あり得る話です」
 二人の会話は久美の耳にまでは届かなかったが、このままでは鉢合わせしてしまうということは容易に予測できた。そして、その後の展開も。
 自分は怒られても構わないが、涼に責任を被せるわけにはいかない。とはいえ、この状況を言い逃れる名案が浮かぶはずもなく、久美の心にはただ焦りだけが募る。
 砂利を踏む音が近付く。二人だけで無実を取り繕うことは不可能だと観念し、久美は口裏を合わせてもらおうと今田を見上げた。
「今田さん――」
 しかし、彼は声の方に目をやり舌打ちをすると、久美の腕を掴み、文句を言う隙も与えずに彼女を家の中に引き込んだ。突然のことに久美は目を白黒させて、今田に為されるがままに裏口へと吸い込まれていく。少し離れた場所から二人を見守っていた涼は、慌てて裏口へと走り寄った。
「お嬢様っ……」
 涼の伸ばした手は僅かながら届かず、無情にもドアは閉まった。彼はノブを掴んだが、鍵の回る感覚が手に伝わる。
 涼は溜め息を吐いて裏口のステップを降りた。久美を捜す男たちの声はすぐ側まで近付いていた。