箱庭からの逃路 14

「ちょっと、何するの」
 手を掴まれたのは一瞬だった。引っ張られた腕はすぐに離されたが、バランスを持ち直すことはできず、久美は慣性に従ってマットに尻餅をついた。ドアの側に立っている今田に憮然とした表情を向け、非難の声を投げ掛ける。
「あのまま放っておいた方がよかったのですか」
 しかし、今田は切れ長の瞳を彼女に寄越して飄々と応じた。冷静な切り返しに久美は言葉を詰まらせる。
「そうじゃないけど……涼はどうするのよ」
「一人なら何とかできるでしょう」
 確かに涼一人なら、久美が坂田を相手にしたときのように誤魔化すことができるだろう。だから、あの状況下では今田の行動が久美にとっての最善だったが、だからこそ疑問が残るのだ。
 今田は体を彼女から背け、携帯を弄んでいる。久美は彼の長身を見上げ、それとなく尋ねた。
「今田さんは私を止めないの?」
 隆志の秘書である彼は、本来なら久美を真っ先に捕らえる立場だ。そんな彼が久美を見逃すだけでなく助けるような行動に出たということは、にわかには信じがたい。できすぎていることにはきっと裏がある。
 しかし、探りを入れる久美に対して、今田はちらりとも目をやらず無造作に言い放った。
「止める理由がありませんから」
 ぶっきらぼうな言い方に久美は目を丸くする。そして、顔を綻ばせた。
「私、今田さんのことを少し勘違いしていたようね。――ほら、それも」
 久美は微かに笑んで今田の左手を指した。薬指に光る銀色の指輪は彼に恋人がいることを証明している。鉄面皮のように見えるが、本当は優しいのだ――。
 しかしその瞬間、彼の無表情に色が走った。手を体の後ろに隠し、久美を睨み付ける。
「何をわかったような顔をしているのですか。あなたは何も知らないでしょう」
 氷のように凍て付いた視線と全てを拒むような口調に彼女は言葉を失う。
 自分の台詞が彼を怒らせたことは明白だった。彼女は目を伏せて、狼狽しきった声で謝罪を告げる。
「ご、ごめんなさい。出過ぎたことを言ったわ」
 唇を噛む彼女から視線を外した今田は、不機嫌を隠せない様子で短く溜め息を吐いた。
 澱んだ空気が室内に沈滞し、重苦しい沈黙が立ち込める。それを破ったのはやかましいドアノブの音だった。久美が何度も回されるドアの鍵を開けると、扉の向こう側から涼が飛び込んでくる。
「お嬢様、大丈夫でしたか」
「ええ」
 久美の様子を確認し、彼は安堵の息を吐くと今田に目をやった。その瞳に先刻の自分と同じ色を見た久美は反射的に口を開く。
「涼、今田さんに私たちを止める気はないわ」
 それでも涼は懐疑的な表情を崩さなかったが、彼女をじっと見つめ、その言葉に嘘がないことを読み取った。警戒心を取り払い、無雑な苦笑を浮かべる。
「それにしても、突然ドアを閉めるのでびっくりしましたよ」
「そのお陰でやり過ごせたんだろう」
「まあ、そうですが」
 涼の口振りからすると、隆志たちの目はうまく誤魔化せたらしい。今田は彼の余裕の滲んだ表情を一瞥し、何気ない調子で「そういえば」と続けた。
「この件はお前が主犯か?」
 不意の問いに涼は目を見開く。今田の目は全てを見透かすようにまっすぐ彼を貫いていた。涼は視線を逸らし、細く息を吐く。
「いえ、……いや、そうかもしれませんね。唆したのは私ですから」
 完全な否定は叶わなかった。涼に下心があった以上、彼の前で嘘をつくことは無意味なことのように思えた。
「そうか」
 今田は深く追及することなく、興味なさげに返答すると門の鍵を久美に渡した。彼女はぱっと顔を上げ、驚きの表情で彼を見つめる。そして、控えめな笑みを零した。
「ありがとう」
「私は仕事に戻ります」
 今田はそれだけ残し、携帯を軽く放りながら廊下の奥へと去っていった。
 暗い空間に静寂が戻る。ドアの向こう側、どこか遠くでふくろうが低く鳴いていた。

「今田さんに言ってたあれ、どういうこと?」
 門の前で鍵を差し出し、久美はふと疑問を投げ掛けた。二人の脱走の主犯は涼かという問いに対する肯定の真意。
「ああ、あれですか」
 彼は口の端から笑みを漏らした。怪訝に思って顔を上げた久美の手を鍵ごと掴む。
「えっ」
 涼は彼女の体を引き寄せ、身をかがめて目線を合わす。その瞳の奥に妖美な光が宿る。
「私はお嬢様を逃がすと言いました。でもそれはあなたの気持ちを汲んだから、という理由だけではないのですよ」
 涼は握った手に力を込め、そして、息が掛かるほどの距離で囁いた。
「俺が、あなたに逃げてほしいと思ったのです。俺と一緒に」
 普段からは想像もできない霊妙な雰囲気を纏った彼は、健常な思考を溶かし、惑わせる。濃い瘴気のような色香に飲まれた久美は、ただ彼を見つめて立ち尽くす。何の思考も働かない。口から零れる息は熱く、そして震えていた。
 涼はそれ以上距離を縮めようとはしない。そして表情を変えることなく口を開く。言葉がその唇から紡がれようとしたそのとき、久美の足が砂利を鳴らした。
 その音に彼女ははっと自分を取り戻す。同時に、自分の置かれている状況を瞬時に理解し、涼の台詞を認識した。
 それは愚弄だった。彼女にとって、その意志の置き場をすり替えられることは。
「馬鹿っ!」
 久美は咄嗟に彼の手を振り払った。鍵が地面に落ちる。驚きに目を見張る涼をきっと睨み付ける。
「あなたがそう思うのは勝手よ。でも、私はあなたを利用しているだけだから」
 涼はしばらく唖然としていたが、しばしの間の後、柔らかな笑みを唇に乗せた。
「私は、あなたを利用しているだけなのよ」
 その表情に余裕を見て取った久美は、彼を見据えて再度言い放つ。しかし、彼の笑顔が崩れることはなかった。
「――それでいいのです。私はあなたの使用人ですから」
 彼はしゃがんで鍵を拾うと、門に差し込んだ。軽い音を立てて鍵が外れる。
「さあ、行きましょうか」
 そう言って振り返った彼の笑みに、先ほどまでの情調はもうなかった。