格子の向こう側 15

 二つの靴がアスファルトを打ち、その残響が暗闇の冷え冷えとした空気を打つ。
「……今何時かしら」
 久美は腕を軽く振り、袖を上げて時計を注視したが、暗闇に慣れていない目と微かな光しか放たない電灯ではその針を読み取ることはできない。
「月があの辺りにあるから、きっと二時頃でしょう」
 文字盤を睨み付けて唸る久美の肩を叩き、涼は空を指差した。薄い雲の向こう側には白々と輝く満月が浮かび、煌々たる光が漏れている。冬の冷気は薄い服などものともせず、身を切るように皮膚を貫く。
 スーツのポケットに入った携帯が一定のリズムで振動する。彼はそれを取り出すと画面を見て、微かに顔をしかめた。表情の変化に目ざとく気付いた久美は短く問う。
「……誰?」
「まあ、想像通りですよ。GPSはオフにしているので安心してください」
 目を閉じて薄く笑うと携帯を閉じる。そのままポケットに突っ込もうとした手を久美が掴んだ。
「ねえ、携帯があるなら時間もわかるんじゃないの?」
「あ」
「馬鹿ねえ」
 間の抜けた声に、久美は呆れた表情を浮かべる。それに対して苦笑で返し、涼は再び携帯を開いた。
「二時二十五分です」
「結構時間が経ったのね」
 涼の部屋に待ち合わせたのが一時で、部屋を出たのが二十分後くらいだろうか。坂田と鉢合わせたり、すんなりと玄関を出ることができなかったりで、想定以上に時間が掛かってしまった。
「そういえば、お嬢様も携帯を持っているんじゃないですか」
 涼の部屋を出る前に渡したスカイルナのバッグに、彼女は自身の携帯も入れていたはずだ。そのことを問いただすと、久美はさっと視線を背けた。
「……さっきはいちいち出すのが面倒だっただけよ」
 平静を装った無表情の奥からは隠しきれない渋面が浮き出ている。取って付けたような後半の言葉も、携帯の存在を忘れていた言い訳にしか聞こえない。
 涼は思わず湧き上がる衝動のまま、喉の奥で低い笑い声を漏らす。彼女はその微かな空気の漏れも聞き逃さず、むっと眉根を寄せて彼を軽く睨んだ。鋭い視線に気付いた涼は慌てて表情を取り繕う。
 ふんと鼻を鳴らして彼から目を外した久美は、しかし不意に立ち止まり身をすくめると小さくくしゃみをした。目尻に涙が滲む。
「やはり寒かったんでしょう」
 涼は優しく彼女を案じる声を掛け、灰色のコートを脱ぐとその肩に掛けた。ふわりと鼻を掠めた石鹸の匂いは少しだけ懐かしく、切なく感じられた。
 久美は薄い上着の上から袖に腕を通したが、サイズの合わないコートは手の先すら出ない。内側から袖をぎゅっと握り、言葉を落とす。
「……あなた、大きかったのね」
「何ですか突然」
「ううん」
 久美は緩く首を振って俯く。
 そうだった。昔から彼は久美より遥かに高い位置から彼女を見下ろし、気が付いたら彼女の手の届かない場所に立っていた。
「あなたが私のことを名前で呼ばなくなったのはいつからだったのかしらね」
「え?」
「何でもないわ」
 過去のことはとうに忘れた。久美は簡単に言葉を残し、さっさと歩き始めた。

 小高い坂を一歩一歩踏みしめていると、いつかの夏の暑さがじわりと肌に蘇る気がした。昔は長かったこの道も、今歩くとやけに短く感じられる。
 住宅街を突き抜けるアスファルトには、最近の工事で上書きされた白線がくっきりと浮かんで見える。寝静まった広い道路の端をゆったりと歩いていると、かつての記憶が鮮明に目の奥に浮かぶ。もうあの家に戻ることはないだろうと久美はそれらの思い出を懐古する。
 白い光が夜を切り裂き、一台の車が通り過ぎる。瞬刻の間に二つの影が浮かび、道の先へと伸びていった。
「向こうの方に自動販売機があったはずです。飲み物を買ってきますね」
 涼は下り坂の中ほどで立ち止まると、下方にある横道を指差した。そのまま踏み出しかけた足を固い声が止める。
「私も行く」
 付いていこうとした彼女を手で制し、涼は首を振った。
「お嬢様は先の公園で待っていてください。疲れが溜まっているはずですから」
「私を置いていくの?」
 不服そうな表情を露にする久美の頭に手を置き、涼は包み込むような笑顔で。
「すぐ戻ってきますから、大丈夫ですよ」
「……なら、コーヒーをお願いするわ」
 彼女はそれ以上不平を口にすることはなく、神妙に応じた。彼はその言葉に頷くと駆け出し、枝道へと姿を消した。

 平坦な道を一人で歩いていると、どうしようもない不安感が込み上げてくる。どんな理由であれ、幼い頃から面識のある涼を連れて出たのは正解だったと久美は思った。もしも一人で家を出たなら、きっとこの孤独に耐えられず、すぐに家に戻ることになったはずだ。
 青いヘッドライトが道路を照らすのを見て久美は道べりに寄った。黒い車が通り過ぎると一転して夜の空気が広がる。
 電灯は瞬きながら儚い光で道を照らす。小さな公園のブランコに腰を下ろすと、体が急に重く感じられた。
 涼の言葉は正しかった。涼の部屋を出た瞬間からずっと体中に力が入っていたのだろう。身を切るような寒さに、改めて自らの自由を実感する。あの家は所詮ぬるま湯だったのだ。
 なんとはなしに鞄から携帯を出すと、彼女のものにもやはり着信を知らせるランプが点滅していた。待受には、部屋のベランダから撮った青空が広がっている。雲ひとつないその天空は久美が憧れた自由の象徴でもあった。彼女は目を閉じて細く長い息を吐くと、携帯をポケットにしまった。
 再び青い光が戻ってくる。大方、道に迷っているのだろう。この辺りは住宅地だから景観も似たりよったりなのだ。車のエンジン音とヘッドライトは公園を通り過ぎる前に消えた。
 チェーンを握って体を後ろに倒すとブランコは鈍い音を立てる。彼女はかつてこの公園に来た幼い日の自分に思いを馳せた。
「私、自由を手に入れてやったわよ」
 充足に満ちた小さな呟きが虚空に落ちる。チェーンを握る手に力を込めると、錆びの臭いがつんと鼻を突いた。
 砂を蹴ってブランコを前後に揺らすと夜風が肌を刺す。無心にブランコを漕いでいるとその規則的な軋みの音に靴音が混ざり、久美は足を地面に付けた。
 腰を掛けたまま振り返ると、公園の外を歩いていたのは複数の黒ずくめの男たちだった。彼女はすぐに正面に向き直り、ばつの悪さに俯く。しかし、その足音は久美のすぐ後ろで止まった。
「あー、ちょっとそこのお嬢さん」
 背後から耳に絡みつくような声が聞こえ、久美の体が大きく震えた。ゆっくりと振り向くと、フェンス越しに先ほどの男たちが立っていた。彼女は警戒心を剥き出しにして眉を顰める。
「何か?」
 先頭に立つ金髪の男は、サングラスを掛け派手なピアスを付けている。久美はその奥の冷たい双眸から目を離せないまま、青ざめた表情で後ずさる。彼の後ろに控えた茶髪の男には見覚えがあった。合格発表の日に喫茶店で絡んできた男だ。彼は色のない顔でリーダー格の男と久美を見つめていた。
 金髪の男はフェンスを軽々と乗り越えると、彼女の眼前に立ちふさがる。久美は息を呑んだ。
「こいつがスカイルナの社長令嬢なのか?」
「間違いありません」
 男の声に喫茶店で聞いたときの軽薄さは微塵もなく、金髪の男に対する畏怖の念が滲んでいた。その台詞を聞いた男は軽く頷くと口角を歪に上げる。
「なら、こいつを連れていけばいいんだな」
 その言葉と共に大きな影がゆっくりと動く。頭の中で警鐘が鳴る。
「やっ……」
 ようやく脳が動き出し、言葉にならない声が口元から零れた。遅れて、逃げなければならないという判断が追いつく。咄嗟に久美は身を翻した。しかしすぐに腕を掴まれ、笑みの混じった声が掛けられる。
「待てよな」
 振り向くと、抵抗する間もなく鳩尾に衝撃を感じ、久美は鈍い痛みに崩れ落ちた。かつんと硬い音が響き、目の前がぐるぐると回る。酸素を求めてもがくも、肺を失ったように口だけが空虚に動く。
 男たちはうずくまり悶絶する彼女を抱き上げ、黒塗りの車に押し込むとドアを閉める。小さなエンジン音と共に青い光はゆっくりと遠ざかり、消えた。

「お嬢様」
 涼の手には熱い缶コーヒーが二つ握られていた。しかし、それを渡す相手はこの場にいない。上着のポケットに入った携帯が空気を震わせる。
 彼は能面のような顔で公園の地面に落ちたストラップを眺める。土で汚れた黒猫の無垢な瞳は、彼を真っ直ぐ見据えていた。