格子の向こう側 16

 久美が消えた――目の前が真っ暗になったような感覚が涼を襲った。
 地面には何かを引きずったような跡と黒猫のストラップが残されていた。それを見れば、彼女が何者かにさらわれたのであろうということは明らかだ。
 胸中に黒く渦巻くのはやるせない後悔。なぜ置いていったのだ、なぜ彼女を一人にしたのだと、心の中で言葉が浮かんでは消え、彼を責める。
 呆然と立ち尽くしていた彼は、やがて緩慢な動作で自らの携帯を取り出した。着信履歴の最新ページに記されている名前は全て同じものだ。涼は力なく彼女の名を押したが、期待した相手が電話に出ることはなく、機械的な女性の音声が虚しく耳に響くだけだった。
 次いで隆志に連絡をする。彼は一通りの説明を聞き終えると、静かな声色で帰ってこいと告げた。そして、弱々しい足取りで空月家に戻ってきた涼を待ち受けていたのは父の殴打だった。
 手加減のない打撃を顔面にまともに食らい、涼の体が揺らぐ。膝を落とした彼に追い打ちをかけるように、豊はさらにわき腹を鋭く蹴り付ける。彼は抵抗することなく豪快に吹っ飛んだ。
「お前は自分が何をしたかわかってるのか? おい!」
 もんどりうって冷たいアスファルトに倒れた涼は、蹴られた横腹を押さえながら体を起こす。豊は激高を露にしてその胸ぐらを掴んだ。
「どういうつもりなんだ!」
「も、申し訳、ありません……」
「藤江、それくらいにしておけ」
 それまで黙って二人の様子を眺めていた隆志が口を開いた。その冷ややかな声に豊は手の力を緩める。彼は舌打ちをして乱暴に涼を突き放すと、隆志に向き直った。頭を下げる。
「すいません……私の注意が行き届かなかったせいで」
 そのまま項垂れる彼に無言で手を振り、隆志は地面に転がった涼へゆっくりと視線を向けた。ぼんやりとを俯いたまま口元に滲んだ血を拭った彼は、ふっと顔を上げる。
「後で話を聞かせてくれるな?」
 暗い瞳の奥が冷たく光ったのを見た。

 冷たい夜風が頬を打ち、木の葉がさざめく。それは地面に座り込んだままの涼の心中にまで吹き荒れる。床に転がったせいで白く汚れたスーツを彼は手で払った。
 豊はスマートフォンを耳に当てては顔をしかめ、隆志はひっきりなく手元の機械を操作している。しかし、彼女もGPSを切っているだろう――涼の予想通り、隆志の表情は芳しくない。顔を曇らせたまま、突き動かされるように画面の中へ没頭する。
 久美を探す二人を眺めながら、こんなところで何をやっているんだろうと誰かが耳元で囁く。彼女をさらったのは一体何者なのか、なぜ彼女だったのか、どこへ逃げたのか、まるで見当がつかない。今こうしている間にも久美の身には危機が迫っているかもしれないのに。
 ひとしきり作業を終え、隆志は諦念の溜め息を吐いた。豊も電話を掛けるのを止め、涼へと近付く。
「お前は自分が不甲斐ないと思わないのか」
 使用人としての責任の所在を問う鋭い指摘。涼は息を詰まらせた。
「思いますよ。とても」
 地面を見つめたままの涼は絞り出すように呟く。それは悔恨の滲んだものだったが、豊は容赦することなく厳しい詰問を投げ付ける。
「なら、どうして主人を危険に晒すようなことをしたんだ」
 涼が顔を上げると、豊は険しい表情で佇んでいた。
 問いに対する答えは複雑に絡まり合っていて、口に出すと壊れてしまいそうなほど脆弱だ。それでも、答えなければならない。
 彼はそっと瞼を閉じて心の中に問いかける。胸中に渦巻く思考をすくい上げ、言語化しようと試みる。ゆっくりと噛みしめるように思案し、彼はまぶたを開けた。
「俺は……久美の使用人です」
 ゆらりと立ち上がりながらそう告げる。荒い息と共に漏れた言葉に豊は目を見張った。
「だから、久美の願いを叶えてあげたかったんです」
 涼はきっぱりと言うと、口を引き結んで俯いた。
 彼の全ての行動の根底にあるもの。彼にとって久美は敬慕の対象であるのと同時に恋慕の対象であり、彼女の望みはすなわち彼の望みに等しかった。裏に不埒な下心があったとしても、涼は久美には逆らわない。
 涼の姿に豊は過去の自身を見た。愚かなまでに真っ直ぐで主に忠実だった現役時代。そして彼は、彼の行動が彼女にとって何の助けにもならなかった事実を再び突き付けられる。血が頭の奥を突き抜け、まなうらが焼け付くように熱くなる。込み上げる衝動のまま、豊は拳を振り上げた。
「ふざけるな……!」
 しかしその拳が涼の体を打つことはなかった。張り詰めた空気を、間の抜けた電子音が切り裂く。さっと視線を向けた二人をよそに、隆志は震える手で懐から携帯を取り出した。画面を確認し、すぐさま耳に当てる。その様子を豊と涼は固唾を呑んで見守った。
「久美、今どこに――」
 焦りと不安の滲んだ言葉が途切れ、その顔がみるみる青ざめていく。通話口から聞こえてくる微かな声は男のもので、それに気付いた涼も眉根を寄せた。
「……ああ。……そうだ」
 呆然と立ち尽くし感情のない応対をする隆志の姿に、涼と豊は顔を見合わせた。豊が口を開き何かを尋ねようとした瞬間、隆志は携帯を地面に叩き付けた。すぐに走り出す。
「隆志さん!?」
 豊は地面に落ちた携帯を耳に当てたが、もうそこからは何の音も聞こえなかった。画面のひび割れた携帯をポケットに突っ込み、彼は俊敏な動きで隆志の後を追う。
「……っ!」
 ガレージに飛び込んだ豊はまばゆいヘッドライトに目を細めた。普段は後部座席でゆったりと足を組んでいる隆志が今は運転席でハンドルを握り締めている。鬼のような形相をした彼は、豊に向かってフロントガラスの内側から怒鳴り付けた。
「そこをどけ!」
 その剣幕にひるみ、反射的に横に退いた彼の真横を勢いよく車が飛び出す。荒れ狂ったように去っていった車体の影を彼は呆然と見つめた。その背後で止まった靴音を聞き、豊は背中越しに問う。
「涼、銃はあるか」
 涼は胸元を確認し、静かに頷く。豊は彼にちらりと視線をやると、前を向き直った。
「行くぞ。追い掛ける」

  * * *

 地面にうつ伏せで倒れていた久美は、目を覚ますと、湿った埃の臭いに顔をしかめた。重い頭を上げて上体を起こそうとしたが、それは叶わない。後ろ手で拘束され、足首も一つに結ばれている。縄で縛られた四肢はちょっとやそっとの力では解けそうになかった。身に付けていたバッグも何者かに奪われたようだ。
 ずきずきと疼く腹部の痛みに、意識を失う前の記憶が蘇る。はっと目を見開いたが、視界には誰の姿も見当たらない。久美はほうと安堵の息を吐いた。
「案外あっさりしたもんでしたね」
「まさか一人でいるとは思わなかったな」
 突然ぼそぼそとした話し声がすぐ側から聞こえ、彼女は体を強張らせた。寝返りを打つ振りをして顔を反対側に向け、薄目を開くと黒い服の男たちの背中が見えた。彼らは久美に背を向け、台車の上に重ねられた板に腰を掛けている。久美が目覚めたことには気が付いていないようだ。
 男たちはざっと見ただけでも五人はいる。ここで焦って逃げようとしても、すぐに捕まってしまうことは目に見えている。彼女は自らを落ち着かせ、現状を把握する。再び反対側に顔の向きを戻し、首だけを動かして周囲を見回すと、そこは寂れた広い倉庫のようだった。骨組みが露出している天井は高く、そこからぶら下がった裸電球が時折瞬いている。倉庫の左右に設置された鉄製の整備用通路はところどころに劣化していて、空いた穴から光が漏れていた。通路の上部にある窓はほとんどが割れており、その向こう側からは燦然と輝く星が見える。
 久美は目を閉じ、彼らの話を盗み聞くことにした。男たちはさほど警戒していないようで、彼女に気付くことなく会話を続ける。
「それにしても、あの男、本当に信用していいんですか」
「確かに胡散臭いが、奴の言葉は事実だ」
 彼らの言うあの男というのは先刻の金髪の男だろうか。それにしては、喫茶店であった男も彼には随分と怯えていたようだったのに、と久美は考えを巡らせた。しかし、声から一人一人を識別することなど到底不可能で、仕方なく彼らの会話を耳に流し入れる。
 と、横たわる久美の背中に影が差した。
「柳城会の奴は陰で人のことをコソコソ言うのか」
 その声は落ち着いていたが、重厚な威圧感を放っていた。男たちはぱたりと会話をやめて声の方向を振り返る。
「す、すいません! 俺たちは――」
「黙れ、見苦しい。……所詮下衆は下衆か」
 男は弁明の言葉をぴしゃりと遮り、冷酷に吐き捨てた。久美は自身を挟んで行われるやり取りに、背中から汗が吹き出るような感覚に襲われた。
 かつ、と硬いコンクリートが鳴る。
「これからの件も俺次第だとわかっていないようだな」
 久美が静かに目を開くと、黒い革靴が視界に映る。その男の声は確かに聞き覚えのあるものだったのだ。