追憶と終焉 18

 久美の目の前の革靴がくるりと向きを変える。その片方が視界から消えた。と思ったときには、彼女は腹に鋭い衝撃を受けていた。男の最小限の動きは、ただ彼女に痛みを与えるためのものであった。
「ぐっ……」
 久美はくの字に折れて呻く。顔を上げると、男は冷ややかな面持ちで彼女を見下ろしていた。
「ようやくお目覚めのようだな」
 男の顔を見た久美の口からは意識することなく言葉が溢れる。
「今田さん……」
 まさか、どうして。彼女の頭を疑問符が埋め尽くす。彼の後ろで裸電球が揺れる。
「私たちが逃げようとしたとき、助けてくれたじゃない」
 言いながら体を起こそうとすると、麻縄が手首に食い込む。久美の縋るような眼差しを受け、今田は薄い笑みを浮かべた。
「俺は『止める理由がなかった』だけだ」
 彼の台詞を理解しきれなかった彼女は、眉を顰めて今田を見つめる。それを見てか、彼はさらに続ける。
「家の警備はあの通りだ、直接手を下せばすぐに奴にバレてしまう。だが、勝手に家を出たお前を連れ去ることは簡単だ」
 今田は厳重なかごの外側で網を構えて待っていた。そして、篭の中の愚かな鳥は自ら安全地帯を捨てようとしていたのだ。鳥を外に出すまいとする者から守るのは、捕獲者にとってはごく自然なことであった。
 久美は数時間前の自分がとんでもない失態を犯したことに気付いたが、既に事態は取り返しの付かないところまで進んでしまっている。現に、彼女は敵の手中にある。彼女は今田を睨み付けた。
「私はあなたには屈しないわ」
 今田は切れ長の目をさらに細める。
「自分が圧倒的に不利な立場にいることがわかりながら、まだ抵抗しようとするか。どちらにせよ、お前の意思はどうだっていい」
 黒い靴が無造作に久美の顎を蹴った。彼女は痛みに顔を歪めたが、声を殺す。それがせめてもの抵抗だった。
 今田は顔を上げ、窓の外を眺める。空に張った薄い雲は満月の光を映して白く流れていた。
「これは、空月隆志に対する復讐だ」
 苦い感情の滲んだ冷徹が彼女に降る。その言葉の真意を問おうと久美が口を開く前に、彼は自らの言葉でそれを遮った。
「お前は空月裕子の娘ではない」
 最初に突き付けられたのは、久美も知っている事実だった。表向きは空月家のタブーとなっているが、内情に詳しい者であれば知っていることだ。裕子は久美に対する嫌悪感を隠そうともしなかったし、隆志も義母の事実を否定するようなことはなかった。
 彼女の瞳は揺らがない。しかし、彼はその態度に動揺することもなく、悠然と彼女に背を向けた。
「ならお前は誰の子か? ……その前に俺の話をしようか」

 俺には高校生のときから五年間付き合っていた恋人がいた。彼女――絵梨は俺より三歳年上だったが子供のような奴で、いつも自由奔放だった。彼女はアパレル店員という多忙な職に就いていたが、俺が大学受験をするときも、傍で支えてくれていた。
 しかし、俺が大学三年生のある日、絵梨は突然姿を消した。大学を卒業したら結婚しようと言っていた矢先のことだった。必死で行方を追ったが手掛かりは見つからなかった。だから、俺は彼女に愛想を尽かされたのだと諦めるしかなかった。
 そんな俺が絵梨の痕跡を見つけたのは、それから四年後だった。研修先の産婦人科でカルテを整理していたとき、彼女の名前が目に飛び込んできた。
 産婦人科――ああそうさ、彼女は出産していた。誰の子を!
 一度だけ、病院で絵梨を見た。数年ぶりに目にした彼女は少し痩せたようだったが、紛れもなく絵梨だった。しかし、俺には見るからに弱っていた彼女を今更なじることはできなかった。彼女が幸せならという思いで、気付かない振りをして気付かれないようにその場を去った。
 しかし、絵梨には立会人どころか面会客すらいなかったらしい。そして、彼女が産んだ子供はすぐに親元から引き離された。
 当時、それはちょっとした話題になった。噂好きな看護婦たちが夜勤の肴にしていたのを俺も何度か耳にした。
『面会もせずに母親から子供だけを奪い取るなんて、ひどい男ね』
『本当、かわいそうに』
 その後、病室で啜り泣く声をドア越しに聞いたが、立ち入って慰めることはできなかった。絵梨が心を病んで精神科病棟に移棟になったと聞いても、今更姿を見せようとは思えなかった。
 俺の怒りの対象は、彼女から子供を奪い、彼女を泣かせた何者かにあった。彼女を壊した男に復讐をしてやる。そのことしか頭になかった。

 決心はしたものの、道のりは長かった。俺は金に糸目を付けなかったが、彼女の子についてはほとんど情報がなかった。それでも、さまざまな角度から調べるにつれて次第に全貌が見えてきた。
 今思うと当然だが、それは空月家のトップシークレットだった。調べた結果、彼女は膨大な金と引き換えに空月家の子を産んだということがわかった。
 絵梨の父は借金をしていて、ある日妻子を置いて蒸発した。そして、残された絵梨は、母を守るために風俗店で働かざるを得なくなったのだ。空月隆志はその店のオーナーと親しい間柄で、よく店を訪れていた。そして、絵梨の事情を知った奴がした提案が、空月家の子を産むことだったらしい。彼女にその提案を蹴る理由はなかった。
 しかし、その結果があれだ。絵梨は精神科病棟に入った数年後に亡くなったそうだ。もしも彼女が空月隆志の提案を飲まなければ、もしも彼女がその風俗店で働かなければ、もしも彼女の父親が失踪しなければ、もしも彼女が一言でも俺に相談していれば。どうしようもない仮定だけが延々と俺を苛み続ける。
 その時点で俺はエリートコースからは大きく逸脱していた。俺はもはや、彼女を憎んでいるのか愛しているのかわからなかった。ただ、ひたすらに執着していたのは確かだった。
 だから、俺はこの手で終止符を打たなければならない。そうしない限り、俺は絵梨と空月隆志につぎ込んできた時間を吹っ切ることはできない。

「言うまでもないだろう、その子供というのがお前のことだ」
 彼は震えていた。強く握られた拳は血の気を失って白い。
「お前を見てるとイライラするんだよ。あいつに似ているその顔を見るたびにな……!」
 握られた拳が無機質なコンクリートの壁を殴打する。指の関節から縷々と流れ落ちる毒々しい赤に久美の目は奪われた。頭の奥に眠っていた記憶が溢れる。
『言ったことも聞けないなんて、どこまでもあのアバズレに似ているのね』
 ――やめて、裕子さん。
『あなたが空月を名乗るなんておこがましいと思わないの?』
 ――痛い。
『お前さえいなければ!』
 それは、単なる記憶としての映像と音声。それでも、彼女は自らを縛った縄がぎりぎりと四肢を捻り切ろうとするような鈍い痛みを感じた。
 パーティードレスが目の前で引きちぎられる。割れた食器。零れたジュース。破片と飛沫が部屋に飛び散る。
 誰もが彼女を“空月”久美として見る。隆志も、久美が自分の娘でなかったら見向きもしないだろう。彼女は、血の繋がった父には無条件の愛を注がれ、血の繋がらない母には存在を否定され続けた。その生活が続く中で、彼女は自らの存在意義を見失いかけていた。
 しかし、そんな環境で生きてきた久美に、彼女が彼女であることを肯定してくれた人物がたった一人いた。物心が付いた頃から久美と共に過ごしてきた彼は、彼女を他の誰でもない一人の少女として見ていた。
 辛いときに頭を撫でる手のひらの感触、弱音を吐く久美に対する厳しさ、よそよそしい敬語の中に垣間見える温かさ、隆志の前では見せないであろう怠慢な態度、それらは全て久美のものだ。
 固く瞑った瞼の縁から涙が滲み、口の端から彼の名が滑り落ちた。
「涼――」
 そのとき、倉庫の入り口のシャッターが軋んだ音を立てて開いた。ゆっくりと振り向いた今田は口角を上げる。
「待ちくたびれたよ」
 裸電球の無骨な光に照らされた影が一歩ずつ近付く。久美はその姿を見て顔を歪めた。