追憶と終焉 20

 血飛沫が頬に飛んだ。久美が男に視線を向けると、その手を一本のナイフが地面に縫い付けていた。痛みに顔を歪めた男がナイフを抜き取ろうと柄を握るより先に銃弾が胸を貫く。久美は骨に響く激痛に耳を抑えた。男の口から濁った血と苦悶の叫びが漏れ、冷たい声が地面に落ちる。
「やっぱり俺にはこれが向いているようですね」
 声の方向を見上げると、整備用通路に無表情で銃を持った涼が立っていた。彼は局部を露にしたまま血に横たわる男から視線を外し、何の感慨も抱いていない様子で銃口を下げた。そして、柵を乗り越え地面に飛び降りるとすぐさま久美に駆け寄る。
「大丈夫ですか」
「え、ええ」
 涼は既に事切れた男の手からナイフを抜き、白い布で丁寧に拭いた。そして、久美の腕と足を縛っていた縄を切ると胸の内側にしまう。白い肌に残る赤い縄跡に触れ、彼は沈痛な溜め息を落とした。
「すいません」
「涼が悪いわけじゃないわ」
「あなたを一人にしたのは私の責任です。……無事でよかった」
 涼は呟き、久美を胸にかき抱いた。スーツから石鹸に混じって微かに汗の臭いがする。無性に悲しさが込み上げてきて、彼女は彼に任せて体を預けた。彼の胸に顔をうずめて嗚咽を漏らす。久美の背中を撫でながら、涼は唇を噛み締めた。
「涼、一匹そっちに行ったぞ」
 地面に座り込んだ二人に、どこからか聞き覚えのある声が投げ掛けられた。
「坂田さん、ありがとうございます」
 涼は体を起こしながら銃身を抜き、左腕に久美を抱いたまま、視線をやることなく撃ち放つ。二人の方へ走り寄ってきた男は膝からその場に倒れた。
 その音に、久美は現在の状況を認識する。こんなことをしている場合ではないと、体を離して涼を見上げた。
「もう大丈夫。ありがとう」
 目元には涙の跡が残っていたが、強張っていた表情はほぐれ、落ち着きを取り戻したように見えた。涼は不安げな瞳で彼女を覗き込んだが、それを見つめ返す二重の黒い双眸が緩い弧を描く。
「ナイフを貸して」
 彼女は立ち上がり、埃を払うと隆志に歩み寄った。その場に屈み込むと足首を縛っていた縄を切る。そして、先ほどまで羽織っていた薄手の上着を破り、ナイフを挟んで足の付け根を縛った。
「……どうして」
 淡々と作業をこなす彼女は、何かに没頭しようとしているようだった。久美は目を伏せて小さく言葉を落とした。

 倉庫の中では坂田が五人の男を相手に大立ち回りを繰り広げていた。突進を足技でかわし、当て身で一人一人戦闘不能にしていく坂田は優勢に見えたが、そのうちの二人が獲物を取り出したのを見て顔色を変えた。
「チンピラじゃあるまいし」
 彼は苦々しげな表情を浮かべて吐き捨てると、倉庫の奥へと下がった。倉庫の南側には段ボールが積まれ、中心部には作業が行える広いスペースがある。坂田は南の壁際に積まれた段ボールの陰に下がり、男たちを迎え撃つ。一人ずつ挑まざるを得なくなった彼らは一対一で坂田に敵うはずもなく、着実にその数を減らしていた。
 次々と打ちのめされる仲間を見て形勢が不利になったことを察した男たちは、口々に喚きながら裏口に向かって逃げ出した。
「女を連れてくるだけじゃなかったのか」
「話が違う」
 その姿は坂田には段ボールに隠れて見えておらず、涼は別の男たちを相手に戦っていたため、逃げ出した男たちを止める者はいなかった。しかし、彼らが東側から通路を通り錆びた鉄製の扉を開けると、その向こう側には一人の男が立っていた。
「一人も取り逃がすなと言ったはずなんだがな」
 豊は一台の車にもたれ掛かり、その銃口を裏口に向けていた。我先にと飛び出した男がその餌食となる。目の前で仲間が撃たれ崩れ落ちるのを目にした男は、慌てふためいて扉を閉めた。
 残されたのは、血を流してコンクリートに倒れた男と、銃をジャケットの内側にしまい込んだ豊だけだ。倉庫の中からは人が暴れているような物音がひっきりなしにしているが、隆志や久美が出てくる様子はない。
「……何をやっているんだ、あいつらは」
 豊は溜め息をつくと車から身を起こし、扉の方へ歩き出す。逃げた男はよほど焦っていたのだろう、扉に鍵は掛かっておらず、すぐに中に入ることができた。
 裏口とを繋ぐ狭い通路を抜けた豊は倉庫を見渡した。作業場は広く設けられており、東と西の壁の側には木材が雑然と立て掛けられている。北側にはシャッターがあり、隆志が入ってきたときに上げられたままの状態になっている。その向こう側には十メートルほどのコンクリートを経て道路が走っているが、車はおろか人すら通る気配がない。天井を見上げると、等間隔で吊られていた電球はほとんどが割れ、辺りには細かいガラスの破片が散らばっている。
 作業場の中央部では、涼が銃を構えて数人の男を相手にしていた。周囲には足を負傷した男たちが倒れている。しかし、広いとはいえ室内で戦うには限度がある。涼は動き回る男を捉えるのに苦戦しているようだ。坂田の姿は見えなかったが、段ボールの陰から激しい物音が聞こえる。そして、久美と隆志は彼の視界には見当たらなかった。
 豊は銃を取り出し、中央で戦っている男たちを一掃した。敵の応戦に必死だった涼は突然倒れた男たちの姿に目を丸くする。豊はつかつかと涼へ近付いて頭を叩いた。
「お前は優先順位も知らないのか。隆志さんとお嬢様はどこにいる」
「え」
 その台詞に涼は目を見開く。そして、「来ていないのですか?」と尋ねた。その表情にはどこか不安のようなものが見られる。
「お嬢様に、社長を連れてすぐに出るよう言ったのですが」
 豊は何も返さない。重苦しい沈黙が濃い霧のように立ち込めた。
「おい……」
 二人の間に降りた沈黙は弱々しい呼び掛けによって破られた。
 声のした方を振り返ると、そこには角材に足を乗せてぐったりとしている隆志がいた。太腿に巻かれた黒い布は血を吸って濃く変色している。そして、止血のために久美が涼から借りたナイフは布から抜き取られていた。
「社長」
「隆志さん」
 すぐさま駆け寄った親子に、彼は喉の奥から囁きのような呻きのような微かな声を漏らす。
「久美は……今田を追うと言っていた」
 その言葉に二人は表情を険しくした。涼は辺りを見回し、今田の姿がどこにも見えないことを認める。そういえば、久美のことに必死になっている間、今田を気にする余裕がなかった。そして、その怠慢が自分の首を絞めているのだ。彼は俯きぐっと歯噛みした。
「お前がそんな調子でどうする。早く探しに行け」
 父の叱咤に、涼は弾かれたように駆け出す。当てもなく飛び出していった後ろ姿を眺め、豊は隆志に向き直った。ぐったりと木材にもたれ掛かっていた彼は、首をもたげると荒い息を零しながら陳謝した。
「……すまない。迷惑を掛けたな」
「いえ」
 豊は静かに首を振り、隆志を抱き起こす。彼は足に力を入れて踏ん張ることもできず、豊にもたれ掛かる。見た目の割に筋肉の付いた体は、さほど体格の大きくない豊が支えるには少し重かったが、彼はそのままシャッターへと歩き出す。
「藤江さん」
 すると、声と共に段ボールの陰から坂田が姿を現した。白いスーツには茶色く濁った血の跡がこびり付いている。彼は今しがた出てきた段ボールの方を指差し、にやりと笑った。
「こっちに来た奴は全員片付けておきましたよ」
「そうか。隆志さんを頼む」
 豊は満足げな笑みで返し、隆志の体を坂田に任せた。彼は隆志を背負い直し、しっかりと体を支える。
「社長、大丈夫ですか」
 そう声を掛けながら、坂田はゆっくりと正面のシャッターへと歩いていく。残党は片付けてしまい、後は涼が久美を探して連れて帰るだけだ。柳城会の者がこのままやられっぱなしでここに留まりおめおめと警察に捕まるようなことはないだろうが、もし見付かったとしても今田の責任にすればいい。想定以上のあっけない幕引きに、坂田は心なしか油断していた。