追憶と終焉 22

 どけとは言われたものの、二人は頭をがんがんと打ち付けるような頭痛に、その場を動くことができなかった。おぼろげな意識でぼんやりと入り口を見つめると、そこにはへし曲がったシャッターと、先ほど涼と豊が乗っていた車があった。
 豊は素早く運転席から降り、二人を探す。彼は作業場の片隅にうずくまっていた二人の様子にぎょっとしたが、すぐに彼らを肩に担いで倉庫の裏手に回った。そこには三台の車と、ぐったりとフェンスにもたれ掛かっている隆志と彼の足に水を流している坂田がいた。
「とりあえず、車内にあった鎮痛剤を飲んでいただきました」
「そうか。傷の程度はどうだ」
「大きな血管には届いていないようです」
 濃い藍色の空には、小さな星が地上の様子など我関せずといった様子で静かに輝いている。豊は、頭を押さえて呻く涼と久美に目をやった。静かに溜め息を吐く。
「ゆっくり息を吸え」
 豊の指示に従って涼は長く息を吐いた。深い呼吸を繰り返していると、頭が少しだけすっきりとしたような気がした。熱に火照っていた脳がゆっくりと冷えていく。
「お嬢様、具合はどうですか」
 隣でなおも俯いている彼女に声を掛けると、久美は眉根を寄せたまま「平気よ」と呟く。こんなときでさえ意固地に平常ぶる彼女の態度に、涼は微かにむっとした。
「平気なわけがないでしょう。あんなに煙を吸って」
「それはお前も同じだ」
 詰め寄る涼を制止した豊はそう口を挟むと、ポケットから鍵を出して彼に放った。
「お前たちは早く病院に行った方がいい」
「お前たち……」
 久美はぼそりと呟いたが、彼が既に使用人をやめていることを思い出し、それ以上は何も言わなかった。そうでなくとも、彼は元々裕子の使用人だ。あの事実を知っていたのだとすれば、彼が久美をよく思うはずがない。だから、今彼女が考えるべきは、彼に久美を助ける義務がなかったにもかかわらず、豊は今ここにいるということだ。
「隆志さんも急いで病院に行かないと、その足は使い物にならなくなる」
 その言葉に坂田は豊を振り返り、困惑した表情で隆志の足を示した。赤黒い穴のあいた傷は生々しく、一目で銃創とわかる。
「この傷を普通の病院で見せるわけにはいきませんよ」
 ただでも倉庫の火事が問題となれば、その責任は空月家の使用人であった今田に押し付けられることになる。そして、こんな傷を普通の病院で晒した日には、常にゴシップを求めているメディアが食い付かないはずがない。おもしろおかしく書き立てられた記事は、世間を炎上させるには十分だ。
「その点なら問題ない。旧知の友人に病院を経営している奴がいる」
「彼のことですね。私が連れて行きましょう」
 隆志の言葉に豊は頷いた。そして、坂田に目をやると倉庫の入り口を指した。
「坂田はあれを処理してくれ。涼は久美様を」
 そこには、シャッターに真正面から突っ込んだ車がぽつんと佇んでいる。シルバーのボンネットに大きな傷の付いた車は、道路を走っているだけでさぞ目立つだろう。しかし、坂田であればそれを秘密裏に処理する手段を持っている。
「はい」
 立ち上がり倉庫へと向かっていく坂田を尻目に、涼は久美の手を引いた。
「お嬢様、行きましょう」
「ええ。でも、まだ聞かないといけないことがあるわ」
 久美は隆志に視線を向ける。足を負傷した隆志は肉体的にも精神的にも消耗しているようだった。
「今田さんが言っていたことは本当なの? 私の、母のこと」
 言葉が喉の奥でつかえ、口から出たのは無様にひしゃげた声だった。隆志は気まずげな表情で視線を逸らした。常に自信に満ちた表情で仕切る彼のこんな顔を見るのは初めてだった。
「ああ。……でも、仕方なかったんだ。ただ、子供を産んでくれと、最初からそういう約束だった。それに、生まれてきたお前は、それはもう人形のように可愛かったんだ。あんな女の元に返すなんて考えもしなかった」
 短い首肯に続けられたのは、長い弁解だった。普段は無口な彼の姿からは考えられない陶酔したような態度に、久美の眉間の皺が濃くなっていく。
「そうだとしても、愛はあったでしょう。あんなことしなくても」
「あの女に愛なんてなかった」
 彼は言い切った。一瞬、言葉は耳に届かなかった。
「あなたは……」
 全身がかたかたと震える。隣にいた涼が彼女の肩を抱いたが、それさえ気付かないほど久美は動転していた。彼は、愛してもいない女の面影を残した娘に何を見ていたのか。
 おぞましい。久美は胸の奥から込み上げる不快感に口を押さえる。目の前の人が急に知らない男であるかのように思えた。
「お嬢様」
 涼は彼女の耳元で低く囁き、この場を離れるよう促した。しかし、久美は崩れかけていた体を立て直し、表情を歪めて隆志を見つめた。喉から絞られた言葉が一滴の雫となり、それは地面にぽつりと落ちる。
「私、知っていたのよ。裏口入学のこと」
 隆志の目が見開かれた。彼は咄嗟に立ち上がろうとしたが、足の痛みに顔を歪める。
「いや、違う。双樹学院の理事長とは懇意にしていたから、ちょうどいいと思って――」
「何が違うっていうのよ」
 慌てて弁明を始めた彼に久美は吐き捨てた。隆志はうなだれたまましばらく黙っていたが、顔を上げると滔々と言葉を紡ぐ。
「すまない。お前がそんな風に思っていたなんて知らなかった。信じてくれ、お前を愛しているが故の行為だったんだ」
 そこまで言って、彼ははっと気付いたかのように声を明るくした。
「そうだ、スカイルナに入ればいいじゃないか。久美なら優遇しよう」
「ふざけないで」
 隆志の声を乾いた音が遮った。隆志はぽかんと目を丸くして久美を見つめる。静寂。
 久美は目を瞑ると、一度深く息を吐いた。心の奥に沸々と煮えたぎるような怒りを感じながらも、それを冷静の陰に押し隠す。そして、おもむろに口を開き、静かに告げた。
「あなたは何もわかっていない。私は、他の誰でもない空月久美として生きたいの」
 それだけ言い残して久美は隆志に背を向けた。唖然と彼女を見つめる彼を振り返ることはなく、涼を従えて歩みを進める。
「……全て杞憂でした」
 涼が小さく呟いた。久美にはその真意は読み取れなかったが、それを尋ねる前に彼は続けて口を開く。
「私は、あなたがあなたである限り、どこまででも付いていきますよ」
 当然のようにそう言う涼に目をやり、久美は悪戯っぽい笑みを投げ掛けた。
「あら、もう使用人はやめるんじゃなかったの?」
「私は“あなたの”使用人ですよ」
 彼はそう微笑むと、豊の車に鍵を差し込んだ。恭しい仕草で後部座席のドアを開ける。久美は一瞬目を伏せたが、小さく頭を振ると車に乗り込んだ。
 車はエンジン音を残してその場を後にする。三人の姿が小さくなっていくのを眺めると、久美は前に向き直った。傷の入ったフロントガラスからは、東の空が白み始めているのが見える。
 車は影のない街を滑らかに走り抜ける。夜明けは近い。