隠したい諸々

 今日という日に少なからず期待を抱いていた涼は、午後の予定を聞かれたときに喜びを押し隠すのに必死だった。
「掃除なんてしなくていいわ。代わりに少しお使いを頼める?」
 しかし、彼女が渡したメモを見て彼は内心ため息を吐いたのだった。

「はい」
 その言葉と共に差し出されたのは、綺麗なラッピングの施された箱だった。赤色のペーパーの中身がチョコレートであることは知っている。それは彼自身が先ほど買ってきたものに違いない。
「えっと……」
 目の前に出されたそれを受け取ることもできず、ただ困惑の表情を浮かべる涼に久美は眉をひそめた。
「せっかくあげるって言っているのに、何なのその態度は」
「い、いえ。ありがとうございます」
 慌てて受け取った涼は手元の箱に視線を落とす。赤い包装紙に遮られて中は見えないが、それは高級チョコレートブランドのものだ。ショーケース越しに見た値札の額は未だに目の奥に焼き付いている。
 いや、期待をしてはいけないと彼は言い聞かせた。それは一般的に高価だと言われているが、彼女にとってはそれほどの値段ではないのかもしれない。有名だからおいしいのだろうと大した考えなしに選んだという可能性も十分にありえる。
 リビングで立ち尽くす彼がどうしたものかと顔を上げると、開きっぱなしのノートパソコンが視界に入った。バレンタイン特集の『大切な家族に』という項目の一番上にそのブランドが並んでいる。涼は目を眇めて彼女を見た。
「大切な家族、ですか」
 彼の言葉に目を見開いた久美は彼の視線を追い、素早く画面を閉じた。その風に乗ってふっと甘い香りが涼に届いた。
「……そういう意味じゃないの」
 恋人でもなく友人でもなく、家族。その意味を言及したわけではないのに、なぜ自ら墓穴を掘る。
 彼は、衝動的に「ならどういう意味なんですか」と問い詰めそうになるのを堪えた。彼女は決まりの悪そうな顔のまま目を伏せて呟く。
「涼にはいつも迷惑を掛けているから、そのお礼」
「迷惑なんてむしろ掛けてくれればいいのですよ」
 そしていっそ、自分なしでは生きられないようになってしまえばいいのに。募る下心は笑顔の裏にしまい込む。
 久美に頼まれて買ったチョコレートはプレゼント包装をするように言われた一つだけだ。涼は返答を予測しながら久美に問い掛けた。
「社長には渡すのですか?」
 案の定、それを聞いた久美はあからさまに顔をしかめる。
「どうして父さんなんかに」
「きっと喜ぶと思いますが……」
「嫌よ」
 子供のようにむくれる久美に苦笑を漏らしつつ、涼は胸の内に密やかな優越感が湧き上がるのを感じた。きっと、チョコレートをもらったのはこの家で自分だけなのだ。
 たとえ“家族”であろうと、彼女の特別であるなら十分だ。
「何をにやにやしているの」
 主の非難の声に、涼は視線を外した。しかし、その口元が緩むのは抑えきれない。
「いえ。チョコレート、大切にいただきますね」
「ええ、きっとおいしいはずよ」
 彼女の嬉しそうな言葉に涼は動きを止めた。
「……そういえば、どうして私にこれを買いに行かせたのですか?」
 心の底にあった違和は形を成すことなく沈んでいる。何の気なく尋ねた問いに、久美は肩を大きく震わせた。
「ふ、深い理由なんてないわ」
 動揺を隠し通した振りをして、彼女は笑みを浮かべる。その瞳が忙しなく動き回っていることに気付かないほど涼は久美に対して無頓着ではない。とはいえ、彼女の努力を無下にするほどその理由に興味があるわけでもない。
 怪訝な表情を崩すことなく久美を見つめていると、どこからともなく漂う甘い匂いが鼻を満たす。その度を越した甘ったるさに彼は僅かに首を傾げた。
 そのとき、リビングの扉が開く。開け放たれたドアの向こうには坂田を連れた隆志が立っていた。
「何なんだそれは!」
 隆志は涼の手元にある赤い包装に目を留めてすべてを察した。鋭い視線で涼を刺す。
「見てわからない?」
 久美は辛辣に言い放つ。隆志は彼女の元へつかつかと歩いていくと仏頂面のまま右手を出した。
「久美、私の分はないのか?」
「ないわ」
 久美はにべもなく即答し、さっさと部屋を出ていってしまった。残された涼も「失礼します」と会釈をしてその場を後にする。
 隆志は手に持っていた資料を乱暴に机に置くと舌打ちをした。
「やはりあいつは解雇するべきだ」
 坂田は予想通りの事態に天を仰ぎながら、憤慨する隆志を「はいはい」と宥めた。

 メモを片手に出ていく涼を見送った久美は、すぐさまキッチンに戻り頭を下げる。
「本当にごめんなさい」
「いえ、お嬢様のお頼みですからいいのですが」
 白いコックコート姿の男は困惑を露わにしたまま、ちらりと室内に目をやる。
 キッチンには惨状が広がっていた。むせ返るような甘さが部屋に充満している。
「――早く片付けなければいけませんね」