虹色の少年の一期一会

 僕は町を歩いて図書館に入った。
 今日の最高気温は三十五度だそうだ。冷房が完備された館内では、学生が参考書片手に勉強している。
 身長の倍ほどありそうな本棚をすり抜け、僕は目当ての棚に近付いた。そこには、小学生の頃から読んでいるシリーズの最新刊が置かれているのだ。僕はそれを手に取り、傍の椅子で読み始めた。

 本を貪り読む快感。
 誰もこの時間を邪魔なんてしない。誰かが僕に声を掛けることなんて無い。

 半分ほど読んだ頃だろうか。誰かに見られているような感覚に、まさかと思いながら本から顔を上げる。
 視線を感じた方向に目を向けると、ワンピースを着た少女が立っていた。真っ直ぐに僕を見据えている。

「あなたは海の色をしている」

 僕の、声を掛けられることなんて無いだろうという確信は、いとも呆気なく崩されてしまった。僕はぽかんと彼女を見返すが、幼い少女はじっと僕を見つめているだけだ。
 六歳ほどであろう少女は、不意に僕の前まで歩み寄ると
「うん、きれい」
 そう言って、朗らかに微笑んだ。


 その後も、彼女と会う機会はたくさんあった。なんといってもこの町には図書館は一つしか無いのだ。冷暖房の完備されたところで本を読みたいという人がここに集うのは必然だろう。
 もちろん、図書館に彼女しかいなかったということは無い。しかし、彼らは僕の最初の確信通り、椅子で本を読んでいる僕など気に留めないのだ。

 彼女が持っているのは常に絵本だった。
 児童文学コーナーで借りた本を僕に見せて、物語を説明してくれる。そのほとんどは僕も知っている物語だったが、たまに相違点を見つけることもあり、その度に記憶を掘り起こすという作業は中々楽しかった。特に外国文学などは翻訳者によって解釈が違うことも多々あり、時に僕の頭を悩ませた。
 僕も自分が持っている本を読ませようとしてみたが、彼女は開くなり「わからない」と言って僕に突き返してきた。当然だ。

 彼女は僕に会うなり、僕のことを夕焼けの色だの木の葉の色だのと言うのが習慣になっていた。
 わけがわからないと思いながらも、それが楽しみになっていた僕がいたのも事実で、僕は、いつかネタが尽きるのではないかという不安も持っていたのだ。
 結局、彼女のボキャブラリーは僕の不安を凌駕するものだったのだが。


 本日は晴天なり。
 外はきっと暑いのだろうが、図書館の中から見る景色は色鮮やかで、華やかに輝いている。図書館の外を見る機会はあまり無かったが、意外と楽しいかもしれない。そもそも、図書館に来てまで外を眺めようとすることも無いのだけれど。
「今日は夜の色をしているね。……何かあった?」
 彼女に隠し事は不可能だ。どんな嘘をつこうが瞬時に見破ってしまう。彼女が言うには“色が揺れる”らしいのだが、よくわからない。
「あのシリーズの最新刊が貸し出し中だったんだよ」
 僕が愛読していたシリーズはついに三十巻を超え、ようやく世間にも認知されてきた。
 それに伴い、今まで新刊コーナーに並んでいた最新刊は、予約しないと読めないようになってしまった。結局、僕は貸し出しされていない間に読むことしかできない。
 今日こそはあの本を読めると期待していただけに、他の本を読む気分になれない。はあっと溜め息をつく。
「だったら絵本を読めばいいよ」
 彼女はそう言って僕に本を手渡す。なんとなく受け取ってから、はっと気付いて彼女に返す。
「いや、僕は本なら何でもいいわけじゃなくて……」
「そう? わたしは本なら何でもいいや」
 だったらあのシリーズだって読めばいいじゃないか。そう言うと、慌てた様子で「あ、それは別でっ」と付け加える。
「“絵本なら何でも”だった」
「それ、あんまり何でもじゃないよね」
 僕が返す言葉ひとつひとつに彼女は反応してくれる。
 図書館の外に植えられたひまわりは太陽を向いてざわざわと笑う。彼女と僕の関係はそういったものかもしれないと、ふと思ってみた。

「わたし、あなたの名前知らないよね」
 絵本を無心に読んでいた彼女は不意に顔を上げた。そういえばそうだったなと僕は首を傾げる。
 今まではそんなものは必要なかったから教えていなかったけれど、考えるとおかしい話かもしれない。
「それに、あなたはいつも図書館にいるの? わたしが来てあなたがいなかったことは無いけど」
「そうだね。僕の名前は――」
 そして、僕は記憶の彼方にあった名前を口にする。その名前に感じた違和感は拭えなかったが、ついでに住所も教えておいた。


 その日はあいにくの雨だった。
 髪から服までびしょ濡れの彼女は、司書に睨まれていることを気にも留めず、迷わず僕に向かってきた。濡れた顔をくしゃっと歪める。
 僕は彼女の向こう側で笑う子供たちを見ながら、今日は絵本を持っていないな、と至極どうでもいいことを考えていた。
「あなたは誰?」
 その言葉の意味を捉えかねた僕は「誰って……?」と尋ね返す。彼女は首を振って唇を噛んだ。髪は含んでいた水滴を手放し、僕の方へと飛ばす。
「あなたが住んでいるって言ってたところ、空き家だった。近所の人に聞いてみたら、そこは何十年も前から誰も住んでないって言ってた!」
「そんな、だって僕は――」
 言いかけた僕は、しかし何も言えないことに気付いて愕然とした。
 僕は――何なのだろう。
「誰もあなたには気付かない。わたしにしかあなたは見えない」
 彼女の声は悲鳴だ。押し殺した声は金切り声より深く心へ落ちていく。
 気づいてしまったから。もう元には戻れない。彼女はすべてを吐き出すように嗚咽と声を絞り出した。
「あなたはいつまでその年なの? ――わたしは、もう絵本を読むような年じゃない」
 僕は彼女を見上げなければならないようになってしまった。それが、ひどく悲しい。
 空は静かに激しく泣いていた。

 司書に床を濡らしていることを注意された彼女は、あの後すぐに帰ってしまった。
 そして、僕の存在について考え、わかっていたはずの事実から目を背けていたんだと気づいた。真実はすぐ側どころじゃなく、自分の中に存在していた。

「僕は幽霊らしいんだ」
 目の前には、先ほどとは違う服を着て目を真っ赤に腫らした彼女。もう来ないと思っていたので、あれはただ着替えるための帰宅だとわかってびっくりした。
「僕は多分、記憶が無いんだ。記録としての記憶ならあるんだろうけど、すぐには引っ張り出せないみたい」
 で、これが幽霊に関する参考文献。
 机に出した資料はざっと数えても五百はある。ちょっと調べただけでこの量なら、実際には数千以上あるのだろう。
「大抵、幽霊って成仏するんだよね」
「うん。何か心残りがあってこの世界にいるっていうのが多いから」
 僕は笑い出したくなった。一体何をやっているんだろう。幽霊が幽霊について調べるなんて、ちゃんちゃらおかしい。
「あのね、わたしはあなたと今まで過ごしてきたけど、そんな心残りがあるような人間には思えないんだ」
 うん、僕もそう思う。死んだからといって、惰性のように図書館で本を読むだけの生活だ。何に不満があったというのだろう。
 そう考えながら本をめくっていると、気になる記述を見つけた。
「キーワード……?」
 突然手を止めた僕に、彼女も本を覗き込む。
 本には、『人間は存命中に言われる言葉が決まっており、それを言われなかった者は現世に留まることになる』と書かれている。いかにも嘘臭い言葉だが、幽霊の存在自体が嘘臭いのだから仕方が無い。それに、僕がこの記述に惹かれたのは、意味があるからかもしれない。
「じゃあ、この本が言うには、あなたはその言われるべき言葉を言われる前に死んだってこと?」
「そういうことだね」
「そんなのわかんないよー!」
 本を調べ始めて早三時間、彼女の集中はもう限界のようだ。
「もうやめる?」
 僕がそう言うと、彼女はぽかんとして僕を見つめる。そして、はっとして僕の肩をぶんぶん揺する。
「駄目、それは絶対駄目! 家族はあなたのことを待ってるんだから」
「でも、そうしたら会えなくなっちゃうよ」
 薄々思っていたが、彼女は全てにおいて僕を優先しているのではないか。学校から帰ってすぐに図書館に来て、そして閉館時間ぎりぎりまで粘って家に帰る。これでは彼女自身の時間なんて皆無だ。
 それでも、僕より随分大人になってしまった少女は、初めて会ったときと何も変わらない笑顔を見せて

「わたしはあなたに会えてよかった。だから、それで十分」
 一粒の水分が、机に落ちて弾かれる。

 そして、その言葉が耳に届き、心に届き、僕の体は突然軽くなり、光を放ち出した。
「――キーワードってこれだったの?」
 ああ、そうだ。僕はそう言ってほしかったのだろう。
 記憶が引き出せない今は、その原因もわからない。でも、それでいい。そんなものは不要な記憶だ。
 彼女が遠くなっていくのがわかる。もうこれでお別れだ。

「今、僕は何色なの?」
 僕はふと尋ねてみた。きっと、彼女の言う僕の色というのは心を映し出したものなんだろう。
 ふっと目を伏せて、それから顔を上げた彼女の顔は涙に濡れていた。
「あなたは虹の色をしている……」
 彼女は目からぼろぼろと涙をこぼしながら、それでも満開の花のように僕に笑った。
「――よかった」
 そうして、僕は空へと上がっていった。僕がそのときどんな顔をしていたのかわからない。笑えていたらいいなと思う。

 記憶の激流が流れ込む。
 彼女は僕の妹に似ていた――恐ろしいほどに。

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