あなたとの出会い

 私はいつも通り本を片手に電車に揺られていた。午前八時の電車は動くこともままならないほど混んでいる。行き帰りの電車で読書をするのは、もはや習慣になっていた。
 顔を上げて周囲を見渡すと、自分と同じようにスーツを着た会社員、第一ボタンを開けた学生たちが狭い車内に押し込められている。ほとんどの人は携帯を手にし、画面の中に俯いていた。取り留めの無いさざめきが束となり雑音となる。
「今日小テストあるってよ」
「え、マジ? どこどこ?」
 かつて辿った青春を彷彿させる無邪気な学生を見ると、思わず笑みがこぼれてしまう。こんな些細な出来事さえも、いつか大切な思い出となるのだろう。彼らは単語帳を開き、小声で暗唱を始めた。
 青春という言葉と縁が無くなって何年経ったのか。新人として多大な仕事に追われているうちに、いつの間にか私は年をとっていた。仕事の波の乗り方も掴み、後輩もそれなりに慕ってくれるが、それでも、やはり身に纏ったスーツと鞄はずっしりと重い。
 私は小さな文庫本に目を落とし、読書を再開した。いつも通りのことだった。

 駅を出て数分経った頃だろうか、私はふと下半身に違和感を覚えた。電車内においてそういう状況が全く無いわけではないことは知っていた。背筋を冷たいものが流れる。
(これは、もしかして――)
 声を出そうかと思ったが、こんな満員電車の中ではきっと誰も助けてはくれないだろう。それに、あと二十分もしたら駅に着いて私は電車を降りるのだ。
 私は何事も無い風を装って本を広げるが、文字をただ追っているだけで内容は全く頭に入ってこない。目をつむって耐えようとしても、神経が過敏になるせいか、全く意味を成さない。もう着く頃かと腕時計を見るが、二、三分しか経っていない。周りの人間がみんな自分を見ているのではないかという気がして、言いようの無い不安が襲う。
 パニックになる中で、妙に冷静な自分がいた。どの道、あと二十分弱はどうすることもできないのだから、この空間の中で耐えるしかない。私は体に力を入れて床を踏み締める。
 ガタンゴトンといえば電車の音の典型だが、最近の電車はそれほど大きな音を立てるわけでもない。ただ、時折不意打ちのように大きな揺れが襲い掛かり、普段なら気にならないそれも今の私の心臓を大きく揺さぶるのだ。全身にありったけの力を込めて最悪の結果を阻止しようと試みるが、それは容赦なく私を追い詰めてくる。全身に鳥肌が立つ。
 寒気と熱が体に降りかかってきているのを感じながら、これはやばいと自分の脳の一部が告げる。両親の顔が脳裏を過ぎる。もう駄目かもしれない、このままだと倒れてしまう。そう思った私の耳に明瞭なアナウンスが届いた。

『本日もご乗車ありがとうございます。間もなくのぞみが丘駅です。ドアから手を離してお待ちください』
 渋い運転士のテノールが天使の声のように聞こえる。あと少しでこの地獄から抜け出すことができるのだ。
 じりじりと速度を落とす電車。早く。冷たい脂汗が限界を告げている。
 間の抜けた音と共にドアが開く。と同時に、私は周囲の人を押しのけて外へ躍り出た。罵声が聞こえた気がしたが、そのまま目的地へと力走する。周りの目を感じる余裕も無く、ただ見えるのは青いマークだけだ。
 私はそこに駆け込むと個室めがけて突っ込み、そのまま勢いよくドアを引いた。しかし、予想に反して個室は固く閉ざされており、ドアノブの表示窓からは赤色が覗いていた。
「嘘だ……」
 涙が鼻の奥を刺激して視界が霞む。しかし、絶望に浸るには私の肛門は強すぎた。この精神的ショックで緩んだにもかかわらず、その役割はしっかりと果たされていたのだ。ここで私が裏切るわけにはいかない。幸いにも会社は駅のすぐ近くだ。

 私は今一度しっかりと力を入れ、トイレを飛び出した。ICカードと共に改札を抜け、会社へ向かって脱兎のごとく走り抜ける。
 狭い路地裏を抜け、フェンスをよじ登ると着地した瞬間に盛大に屁が出た。そして、フェンスを越えた目の前にある大通りを渡る。勢いよく走る車の網目の穴を抜けたのはさすがにまずかったのか、一つや二つではない怒号とクラクションが背中に突き刺さるが、背に腹は代えられない。
 見覚えのあるビルに入ると、それだけで安心感が湧き上がる。しかし、ここで失態を犯してしまったらもう取り返しがつかない。私はトイレの案内を頼りに奥へと駆けていった。親しい受付嬢が挨拶をしてきた気もするが、まあ後回しだ。

 男子トイレへ飛び込み、たった一つの個室を開く。
 白くなめらかな表面、そして、臀部に合わせて作られた、人を安心させる美しいフォルム。来る者を待つことしかできない定めを背負ったトイレは、その生き様のせいか孤島に咲く一輪の花のように可憐で清廉だ。そして、今目の前にある純白の便器は、まさに私を待ち望んでいたようだった。
 私は感涙に咽びながら便器に腰を掛け、安堵の溜め息と共に便意を開放した。
(助かった――)

 そこで私ははっと気付いた。
 ズボンはおろか、私はチャックすら下ろしていなかったのだ。

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