声のないこどもたち

 子供は親を選べない。そして、自分の身から自由になることもできない。

 日常。変わらないローテーション。
 朝七時に起きて朝ご飯を食べて家を出て授業を受けて友達と談笑して家に帰って宿題をしてお風呂に入って寝る。
 変わらない毎日。期待もなければ失望もない。こうして日々をなんとなく生きているうちに大人になるんだろう。何の感慨も無いまま、区分分けされたテンプレートを選び、敷かれた道に沿って歩いていくうちにいつか死ぬ。人生なんてそんなもん。
「えー、まじで?」
「ほんとありえないよねー」
 愛想笑いをする自分に嫌悪感を抱かないわけでもないけど、それはそういうものなんだって割り切ってる。ただ、こうやって笑っていると私の存在の在り処がわからなくなってくる。
 これは本当に私の感情なの? そもそも本当の私って何? 学校で笑っているとき、家でくつろいでいるとき、どれも私であって私ではない気がする。
 だから、無性に不安になる。心の中でひどく醜い自分が渦巻くけど、それは口には出せない。

 学校から帰った私は、誰もいない家のドアを開け、足先だけでローファーを脱いだ。汚く折りたたまれたテストをファイルから取り出し、少しの間見つめる。
 国語は平均点68点で85点ならまあいいかな。あー、でも今回数学がよくなかったなあ。すべてゴミ箱に突っ込む。
 と、机の上に黒い携帯電話が乗っているのを見つけた。仕事に持っていくのを忘れたのかな。電話帳を開くと、連絡先は二桁にも満たない。そっけない電話帳の画面をスクロールした私は一つの項目で手を止めた。
 父の名前がそこにあった。
 どうして、だとかそんなことはどうでもよかった。すぐに私は机の上に視線を走らせる。何か、メモになるものを。
 机の上にぽんと置かれたルーズリーフの束から一枚抜き、その片隅に父の名前を記す。電話番号とメールアドレスを夢中で紙に写すと携帯を閉じた。
 私の家は母子家庭だ。私が幼い頃にいろいろあって離婚し、それ以来母は女手一つで私を育てている。
 母の職場はお世辞にも待遇がいいとはいえず、帰りが十時を回ることもたびたびある。寂しいなんて言っても仕方がない。母が仕事をやめたら私たちは生活できないんだから。

 明日までに提出しないといけない宿題をしていると、あっという間に日が沈み、窓の外は闇に包まれた。いつもより早く帰ってきた母は慌しく夕飯を作ると、色気の無い下着を持って、すっかり冷めた風呂へと入っていった。
 食卓机に肘を付いて味の薄いおかずを食べていた私は、ちらりと風呂の方を確認した後、夕方の紙をポケットから取り出した。
 お父さん。数字とアルファベットを一つ一つ追いながら、心の中で呼んでみる。それは甘美な響き。私は見知らぬ父に思いを馳せる。
 どんな人なんだろう。母が父の話題に触れることはほとんどなかった。だから私が知っているのは名前、そして今日手に入れた電話番号とメールアドレスだけ。でも、きっと悪い人じゃないんだろう。
「――ちゃん、どうしたの」
「ううん、何でもない」
 バスタオルを首に掛けた母にそう返し、私は紙をポケットにしまいこんだ。

 今日も母は帰ってこない。もう十一時過ぎだというのに。リビングとも言えない狭い部屋に響くのは、バラエティの笑い声とラーメンをすする音だけだ。車も滅多に通らない田舎の住宅街はしんと寝静まっている。
 ふと思い出した。ポケットからしわくちゃの紙を取り出して、番号をじっと見つめる。お父さん。お父さん。私はゆっくりとそれを携帯電話に入力する。
 お父さんが出たら何て言うだろう。驚くかな。少しの間心の中で思案し、通話ボタンを押した。
「はい」
 出た声は予想していたよりも低かった。自分の心臓の鼓動が頭に響く。
「……お父さん?」
 初めて口にした呼称はかすれていて無様なものだった。私の声を聞き、相手は電話越しに息を呑んだ。私が口を開こうとしたそのとき、電話口の奥から「おとーさん?」と子供の無邪気な声が届いた。と思った次の瞬間、電話は切れた。
 何よりもわかりやすい拒絶。甘い期待は粉々に砕け散った。静かな部屋に無情な切断音が響く。
 あの幼い声の「お父さん」に、私のような張り詰めた緊張感はなかった。毎日当たり前のように呼んでいて、まさかその言葉に渾身の思いをこめる人がいるなんて思っていないような声。
 私の父にはもう家族がいた。裏切られた。その思いが私を打ちのめした。

 出口の無い真っ暗な迷路に突然突き落とされたようだった。
 学校に行くことが急に億劫になった。宿題をする意味がわからなくなった。愛想笑いをする自分に疲れた。
 すべてを放棄したくなった。そして、それはとても簡単なことだった。綱を握る両手を離せば、私は坂を転げ落ちるように泥濘に転落していった。
 かつて私を友人と呼んでいた人たちは私を遠巻きにするようになり、担任は「何かあったのか?」と心配をする仮面の内側でため息をついていた。母は目に見えて憔悴しているようだった。全部、どうでもいいけど。
 代わりに新しい仲間ができた。もう一人暗い部屋で母を待つこともない。暇があれば携帯で彼らと繋がった。母のいない部屋で寝転がったまま、片手で小さな機械を操作する。
『暇ー』
 それだけでいい。平日の昼間であろうと、彼らはすぐに反応してくれる。
『遊びに行こーや』
『いいよ』
 私は携帯と財布をポケットに突っ込んで家を出た。暗い迷路の隅でうずくまる私にとって、アスファルトに反射する太陽の光はやけに眩しかった。

 夜が垂れ込み空を覆う。満ちた月は天に浮かび、煌々と地上を照らす。
『暇だー。家来る人いない?』
 画面の中のメッセージと数度のやり取りを交わし、私は携帯と財布を手に玄関へと向かった。
「こんな時間にどこに行くの」
 案の定、母の声が背中を追う。私はいつものようにそれを黙殺しドアに手を掛けた。
「ねえ」
 唐突に強い間投が耳朶を打った。同時に手首を掴まれる。声の調子とは対照的に弱々しく細い腕は、私がひねり返したら折れてしまいそうだった。
「――ちゃんはどうしちゃったの? 前はこんな子じゃなかったのに」
 訴え掛ける母の目には涙が浮かんでいた。その表情を見た瞬間、頭をよぎったのは少しの罪悪感とそれを遥かに上回る苛立ちだった。彼女がしていることはただの理想の押し付けでしかない。勉強ができて素直で思いやりのある理想――過去の私の幻影を求めているだけだ。
 つまり、母の理想のいい子でない私は認められないってことなんだよね。私は渾身の力を込めて母の細い体を突き飛ばし、暴言を吐き捨てた。
「もううんざりなんだよ!」
 叫ぶなり家を飛び出すと、出会い頭に誰かとぶつかった。顔を上げると、かつてよく遊んだ隣の家のお姉さんが立っていた。彼女は飄々とした笑みを浮かべて肩をすくめる。
「いってらっしゃい」
 その言葉には返事をせず、私は駅へと向かった。ポケットに携帯と財布だけを入れて身一つで家を後にする。
 無人改札を抜けると、ちょうど電車が来た。これを逃すと一時間は次の電車が来ないところだった。間がよかった。
 平日の夕方だというのに、単行列車の中には誰もいない。私は二人席の窓際に座った。窓に寄りかかり、ぼんやりと外を見つめる。
 外の風景はめまぐるしく変わる。幼稚園の通学路。小学生の頃よく遊んでいた公園。友達と自転車で切り開いていった狭い道。
『終点です』
 電車を出て駅名を見ると、そこには何も書いていなかった。真っ白で薄汚れた看板がぼけっと突っ立っていた。見たことのない景色。
 気がつくと電車は姿を消していた。鳥の鳴き声、木のそよぐ音、何一つない。音のないだだっ広い空間で私は一人立ち尽くしていた。
 ゆっくりと辺りを見回したが、改札はなく、フェンスもよじ登るには高い。このプラットフォームからは出られなさそうだ。なら――眼下の線路が私を誘った。
 私はゆっくりと線路に降り立つ。プラットフォームを見上げると、電線とフェンスの奥に真っ赤に燃えた夕焼けが広がっていた。鳥の影一つない赤空は、鼓動が聞こえてきそうなほど生々しい。
 私がその空から視線を逸らした瞬間だった。突然、突然電車のブレーキ音が鼓膜を揺さぶった。反射的に上り線を見ると、至近距離に電車が迫っていた。眩しいライトに飲まれ、私は死んだ。

 ――頭が痛い。
 ゆっくりと目を開けると、私は知らない場所にいた。辺りは薄暗く、誰ともわからないいびきが聞こえる。酒、煙草、香水の臭いがないまぜになって淀んだ空気が充満している。
 ああそうだ、友達の家に行って……それから誰かの家で飲むことになって、そのまま潰れたんだ。まずいな、缶を空けてからの記憶がない。
 がんがんと脳を刺す痛みとぐるぐると回る視界を堪えながらテーブルに手を付くと、プルタブの空いた缶が転げ落ちた。それを拾うことさえ億劫で、私は缶を見なかったことにした。床に投げ捨てられた衣類を身にまとう。
 散乱した人と物を避けながら、暗く狭い視界を模索する。ドアを開けると、冴えた空気が体を満たした。ごつごつとしたアスファルトが裸足に突き刺さる。
 私は駅へ向かった。真っ暗な道を照らすのは小さな光。足元を照らすだけで精一杯な光源でも、先に進むには十分だ。ふらつきながら、確かな足取りで一歩、一歩。

 夢で見たあの地へ行こう。電車に乗って、私の知らない遠くへ。
 他の誰でもない私が辿りつく先は白紙の駅だ。その駅に名前を付けるのは私。
 私はこの孤独な道を歩いていく。その先に何があるのかは、今は知らなくてもいい。

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