日暮れぬ町、逢う魔が時

 気が付くと音のない真っ赤な空間に立っていた。
「ここは……どこ」
 僕は立ち止まって立ち尽くす。
 目の前に広がるのはいつもの通学路。見慣れた道路。だけど、何かが違う。道には車どころか人っ子一人いない。たった一つ自分の影が僕を追い越して長く伸びる。
 塀と塀の間にまっすぐ続く道を歩いていく。夕日が落ちる住宅街の道路は、車がすれ違うのがやっとなほど狭い。そして、たまに小さな交差点に掠れた「止まれ」の文字が書かれている。
 そうして歩きはじめて数分たった頃だろうか、不意に舌ったらずな声が響いた。
「だあれ?」
 僕はその場を飛びのき後ろを振り返ったが、そこには僕一人が通るには広すぎる道路が果てしなく遠くまで続いているだけだ。声がくすくす、くすくすと笑うたびに鈴の音がしゃらしゃらと鳴る。
「あそぼ」
 もう一度、頭の奥で声がした。声は僕の中に直接話しかけているように近く、微かな吐息まで感じ取れる。男の子か女の子か判別することができない幼い声は期待に満ちている。
「おいで。こっち」
 僕の足はその声に操られるようにふらふらと歩いていった。
 声に導かれるままずっと道を歩いていくと、突然道の右側に開けた空き地が現れた。手入れのされていない枯草だらけの空き地に座り込むと、再び耳元で声がする。
「あそぼ」
 どうやら、この声の主は僕に危害を加えるつもりはなく、本当にただ遊んでほしいだけらしい。僕は長く息を吐いた。
「どうやって遊ぶの? 君の姿は見えないのに」
「…………」
 声は黙り込んだ。言葉はないけれど、悩んでいるのが手に取るようによくわかる。
「ひと」
 少しの沈黙の後、彼女はそうつぶやいた。しかし、その声はさっきまでの脳に直接響くようなものではない。
 見ると、目の前には黒髪を肩口の長さに切り揃えられた童女が立っていた。背丈は僕の肩ほどで、くれないの色をした寸足らずの着物から白い足首がのぞいている。その黒い瞳は深く、何を映しているのかわからない。赤く縁取られた唇の端が微かに上がった。
「おにごっこ。まずはあなたがおに」
 短いふっくらとした人差し指が無遠慮に僕に向けられる。
 え、と僕が聞き返す前に、彼女は身をひるがえして音もなく曲がり角の向こうへ消えた。慌ててその後を追うと、曲がった先は突き当たりで道は左右二手に分かれていた。
「こんな道で鬼ごっこなんてむちゃくちゃだ」
 それでも、遊ぶと言ったからには追いかけるしかない。僕は自分の勘を信じて左に曲がる。すると前方に交差点が見えた。まっすぐ行くと次も十字路がある。曲がると今度は丁字路。
「――……」
 おかしい。何度曲がっても同じような道に出る。出口と行き止まりのない迷路をぐるぐると回っているだけのようだ。はあ、とため息を吐いて空を見上げると、雲の底は青と紫を混ぜたような色を映し出していた。
 疲れ果てた僕は、その苛立ちのまま、道の真ん中で天に向かって声を張り上げた。
「ねえ、どこかで僕を見てるんでしょ」
 びしりと空気が震える。
「鬼ごっこなんて言って、こんなのかくれんぼと一緒だ。姿を見せる気がないなら僕はやめるよ」
 すると、「ごめんなさい」と今にも泣き出しそうな声が後ろから聞こえた。
「ちゃんとにげるから、あそんで」
 振り返ると、すぐ先の角を曲がる赤い着物の裾が見えた。僕は慌ててその後を追う。童女が走るたびにからんころんと下駄が鳴る。
 その音を頼りに、左右に曲がりながら彼女を追う。僕の靴は学校指定の運動靴だから、すぐに追いつけるはずだ。予想通り、彼女の足はそれほど速くはなく、すぐに逃げる着物姿が視界に収まるようになる。だんだんと僕と彼女の距離が縮まっていき――
「つかまえた」
 伸ばした右手が黄色い帯に触れる。下駄が地面を打つ乾いた音が止まった。大きな黒い目が僕を見上げる。
「つかまった」
 童女はそう言って唇を尖らせたが、その割にはあまり残念そうな表情をしていない。一見無表情に見えるその顔はむしろ嬉しそうだ。
「じゃあ、つぎは、わたしがおに。にげて」
 それだけ言うと童女はその場にしゃがみ込んで数を数えはじめた。
「いーち、にーい、さーん……」
 僕はすぐさま彼女に背を向けて走り出す。いくつもの角を曲がりながら全速力で走り、息が切れてきたところでゆっくりと歩く。どこまで来たのかはわからないけど、かなり遠くまで走ったような気がする。
 この鬼ごっこで彼女が鬼になっている限り、僕は絶対に捕まらないんじゃないだろうか。あの下駄の音は遠くからでもよく聞こえるし、僕の方が足が速い。そう考えると、なんだかあの子がかわいそうになってきた。
 そう思いながらこころもちゆっくりと歩いていると、突然右足が何かに引っかかって僕は道に投げ出されそうになった。すんでのところで左足を踏み出して持ちこたえた僕は、どきどきと鳴る胸を押さえながら足元に視線を落とす。
 左足の運動靴のマジックテープがはがれて宙ぶらりんになっていた。きっと、これが靴に引っかかってこけそうになったんだ。僕はしゃがみこんでマジックテープをくっつけようとして、指が何か煤のようなもので汚れているのに気が付いた。
「……?」
 よく見ると、右手の中指に細かな黒色の粉が付いている。それは角度を変えるときらきらと光って見える。いつの間にこんなものが付いたんだろう。僕は指を服の裾で拭いた。
 それからその場でしばらく待っていたけれど、童女が来る気配も下駄の音もない。もしかして、さっきの僕のように道の中で迷子になっているのだろうか。このまま彼女がずっと来なければ、鬼ごっこの意味がない。
 僕は来た道を引き返して歩きはじめた。鬼ごっこを始めてからずいぶんと時間がたったはずなのに、空は相変わらず真っ赤のままだ。この町は空模様が変わることも、風が吹くこともない。始まりもなければ終わりもない。
 結局童女には会えなかったけど、ずっと歩いていると、道路の左側に塀が途切れているところがあるのが見えた。そこにはまっすぐ伸びた枯れ草が生えている。最初に彼女に連れていかれた場所に戻ってきたのだろうかと考えながら僕は空き地に入った。
 もしかしたら、そこは最初の場所ではなかったのかもしれない。道がどこにつながっているのかもわからないこんな場所では、何も頼りにできるものはない。ただ、僕の目の前、枯れ果てた草の向こう側にはくすんだ朱色の鳥居が構えていた。その奥には燃える夕日を背に真っ赤な花の群生が広がっている。風を受けて右へ左へ揺れながら、天へと伸びる赤は禍々しい美しさを放っている。
 それは一輪一輪がまるで意思を持ち、僕を誘って揺らめいているようだった。
「きれい……」
 ふらりと踏み出した足が鳥居をまたごうとした瞬間、僕の体は突然後ろに引っ張られた。振り向くと、いつの間に現れたのか童女の小さな手が僕の服を掴んでいた。彼女は静かに首を振る。
「いっちゃだめ」
「どうして?」
「かえってこれなくなる」
 僕は鳥居の向こう側を振り返る。どくん、と胸が波打つ。鮮やかに色づいた赤い花が急に不気味に見えた。
「あっちにいこう」
 言い知れない気味の悪さを残したままその場を離れると、息が詰まるような鼓動がすうっと収まった。僕はすぐ後ろをついてきた童女に目を向ける。
「この世界は何なの。……もう嫌だ、元の世界の帰りたい」
 声は少しだけ湿っていた。僕は、ちょっと気を抜くと零れてしまいそうな涙を見せないようにそっぽを向いた。
「ごめんね。でも、きっとあなたはかえれるよ」
「本当?」
「うん。ここにずっといなきゃいけないのは、わたしだけ」
 その意味を尋ねようとした声は言葉にならなかった。僕は彼女の言葉をわかってしまった。きっと、彼女はずっと一人なんだ。今までも、そして、この先も。
 童女の表情は少しもつらそうではなかったけど、こんな場所でずっと一人でなんて、僕なら耐えられない。それなのに、僕は彼女を邪険に扱ってばかりだった。
「……ちゃんと遊んであげられなくてごめん」
「たのしかったよ?」
 童女は目を丸くして不思議そうに答えると、こてんと首をかしげた。その反応に僕は少し拍子抜けする。彼女は大きな瞳をすっと細めた。
「ほんとうは、もっとあそびたかったけど――」
 そこまで言って、彼女は名残惜しそうに空を見上げる。つられて僕も空を仰いだ。
「あなたをよんでいるみたい」
 真っ赤に燃えていた夕焼けを藍色の空が押し流していく。止まっていた時が動き出し、辺りは次第に薄暗くなる。
「あそんでくれて、ありがとう」
 夕焼けは西に沈み、濃く溶かされた青が空に染みる。あっという間に童女の着物も顔も闇に溶かされて見えなくなる。
 きいんと空気を断ち切るような高音に、僕は耳を押さえてうずくまる。頭を揺さぶるその音の上から、小さな囁きが聞こえた。
「でも――もう、きちゃだめだよ」


 気が付くと騒がしい真っ白な空間に横になっていた。
「――、――」
 僕の名を呼ぶ声に目を開けると、家族が涙を浮かべて僕を覗きこんでいた。お父さんは強張った顔を緩ませて、お母さんはその場にへなへなと座り込む。
「なんと……こんなことは前例に無い……」
 興奮した声に顔を反対側に向けると、眼鏡をかけた白衣の男の人が頬を紅潮させていた。お医者さんはゆっくりと長く息を吐くと、眼鏡を押し上げた。
「君は交差点で撥ねられたのですよ。助からないと言われていたのですが、……奇跡です!」
 その後もお医者さんは何か言っていたような気がしたけど、後の言葉は記憶にない。窓の外に広がる青空がやけに清々しかったのを覚えている。

 目を覚ましたその日は、よくわからない難しい名前の検査を受けるだけで終わってしまった。結局、特に異常がないということで、僕は意識を取り戻して三日という脅威の早さで退院した。すぐに学校生活に戻った僕は、そのうち事故にあったことさえ忘れてしまった。
 それを思い出したのは、月日が経ち、僕が中学生になって最初の秋だった。
「さむ……」
 塾からの帰り道、西から吹いた風が半袖で無防備な腕を刺す。僕は思わず両腕を抱え込み、二の腕をさすった。
「もう秋か」
 この間まで夏だったような気がするのに、もう寒さが肌に痛い季節になってしまった。この調子ですぐに冬になってしまうんだろう。僕はぼんやりと考えながら通学路の交差点を横切った。瞬間、ゴムが軋む音が耳をつんざいた。
「――っ」
 ブレーキの音が長く響く。反射的に音の方に目をやると、スローモーションのようにゆっくりと近付く乗用車が見えた。ハンドルを握った女の人の目が驚きに見開かれているのが、やけにはっきりと目に焼き付く。このまま死んでしまうのだろうか、と頭の隅で妙に冷静な自分がいた。
 そのとき、僕は背中を思い切り突き飛ばされた。時間が元に戻り、僕は予想外に加わった力の勢いのまま地面に転がる。手から離れた学生鞄はアスファルトに叩き付けられた。
「大丈夫ですか!?」
 地面に手を付いたまま放心していると、血相を変えたスーツ姿の女の人が運転席から出てきた。僕は制服に付いた白い砂を払って立ち上がる。突然の力に受け身が取れなかったせいで体の節々が痛いが、怪我は掠り傷だけだ。
「大丈夫です。すいません」
「これ、私の連絡先です。念のためお医者さんに診てもらってください」
 女の人は胸ポケットから名刺を取り出し僕に渡すと、車に乗り込み勢いよく発進した。エンジン音の後に残されたのは、地面に短く伸びた黒いブレーキ痕だけだった。
 あっという間の展開に、僕はしばらく呆然と突っ立っていた。不意に烏の群れが飛び立ち、僕はその羽音にはっと我に返る。
 もう帰らないと。
 僕は地面に転がった学生鞄を拾おうとしゃがみ込む。しかし、僕の目は道端に咲いた真っ赤な花に釘付けられた。小さな一輪の花は忘れ去られたようにひそやかに佇みながら、それでも一生懸命空へと手を伸ばしている。その姿に、鳥居とその向こう側に咲く彼岸花の群生が頭に浮かんだ。
 その花に近付こうと足を踏み出したそのとき、僕の背後から一匹の黒揚羽がひらりと舞い出た。大きな翅をはためかせて宙を踊る姿に赤色の着物が重なる。一瞬にしてあの日の記憶がよみがえる。
「待って!」
 僕は咄嗟に黒い蝶に手を伸ばす。しかし、蝶は制止の声に止まるはずもなく、まっすぐに彼岸花のもとに飛んでいき、その陰に消えた。
 立ち尽くす僕の耳元でしゃらんと鈴の音がする。同時に、いつか聞いた懐かしい声が聞こえた気がした。

 ――もうきちゃだめ、っていったでしょ。

 時は宵。群青の幕が下りる空に、明るく白い月が昇ってきた頃だった。

星屑ノスタルジア 参加作品(加筆修正版)】
お題:『彼岸花』『明白』『夕暮れ』
Copyright(c) 2015 Banri Amamiya All Rights Reserved.