ラッキースケベは突然に

「なんなのよこれ!」
 女の声など意にも介さず、男は仁王立ちしたまま満足げに頷いた。
「わかるか、これがラッキースケベだ」
 隣の家に住む幼馴染。おばさんの厚意に甘えて風呂を借りようとしてドアを開けると……という、お決まりのアレである。
「うるさい! 何がラッキーよ」
 しかし、女は全身でもがきながら男を睨みつける。
「だって、そんな偶然が普通起きるわけないだろう」
 女は後ろ手に縛られて床に転がされていた。もちろん、女が風呂場でこういったプレイをしていたわけではない。男が女を縛り風呂に投げ込んだという、いわば自作自演である。
「しかしなんというか……そんなに滾らないもんだな」
「失礼ね!」
 女の色気が足りないのか。否。彼女はクラスでも一番といっていい美人だし、おねしょしていた頃からの付き合いがあったとしても、男として相手に不足があるとは思えない。
 やはりラッキーというのがいいのだろうか、と男は首をひねる。だが、それを実行するのは不可能だろうと男は思考を巡らせる。
「普通風呂に入っているときは外からも音が聞こえるだろうし、そもそもおばさんだってそんなタイミングで俺を立ち入らせようとはしないだろう」
 ならばどうすれば――と、男の考えが沈んでいこうとしたのを察した女は声を上げた。
「どうでもいいから、早くほどいてよ!」
 長年の付き合いで、男がまた変な方向に考え始めているのには気づいていた。縛られたままでは身体中痛くてたまったもんじゃない。
「ああ、忘れていた」
 とにもかくにも実験は失敗だ。女に急かされ、男は縄をほどいた。
「いやいや、悪かったな。男のロマンと言うやつだ、許してくれ」
「ばか、もう、ほんと最低……」
 女は毒づきながら体を起こした。乱れた黒髪がやけに色っぽい。
「突然何なのよ。あんたそんなの今まで全然興味が無かったじゃない」
「興味が無かったからだ」
 平然と返す男に、女は苛立ちを隠そうともせず「はあ?」と顔をしかめた。
「高校生にもなって性に興味が無いのは異常だと言われた。で、友人がこの本を貸してくれたんだ」
 そう言いながら取り出したのは、露出度の高い服を着て顔を赤らめた女の子が表紙いっぱいに描かれた本である。ラッキースケベの総本山、ライトノベルというわけだが。
「それでこんな突飛な行動に出たっていうわけね」
「そういうことだ」
 悪びれる様子もない態度に女は男を半目で睨んだが、この幼馴染の頭のネジが一本ばかりではなく抜けているのはいつものことだ。悪いことをしたとは思っていないのだろう、基本的に。
「だいたい、私服着ているんだけど。普通は脱衣所で脱いでいるときとか、シャワー浴びている最中なんじゃないの?」
「そうか、それを失念していたな」
 なんということだ、と頭に手を当てて唸る男に、女は呆れを滲ませた視線を送った。
「あんたはいろいろなことに疎すぎるのよ。そんなんだから恋愛したこともないんじゃないの?」
 女が嘲るように鼻で笑ってみせると、男は「そうだな」と真顔で返す。そして、ふんと胸を張ってみせた。
「だから何だ。俺は自分としてあるがままに生きたいと思っているぞ」
「別に何ってわけじゃないけど……」
 女は言い淀み、視線をさまよわせた。こうまで開き直られてしまうと返しようが無い。それより、違うことが気にかかっていた。
「なんで私だったの」
「どういうことだ?」
「なんで、そのラッキースケベ、私でしようと思ったの?」
 ふむ、と顎に手を当てて考え始めた男に、女は見せつけるように溜め息を吐いた。
「まさか、たまたま隣の家に住んでいる幼馴染がいたからとかじゃないでしょうね」
「それだ!」
「それなの!?」
 女は打てば響くように叫んだ。その非難するかのような口ぶりに男は困惑した。彼女がどんな返事を期待していたのか、いまひとつわからない。彼女にはよく人の機敏に疎いと言われるが、男にとって女は常に未知の存在だ。
「まさかよく知らない女にこんなこと頼むわけにもいかないだろう」
「それはそうかもしれない……って、そもそもしなけりゃいい話じゃない!」
 確かにその突っ込みは最もだと頷いた。彼女なら多少の無茶は許してくれるだろうという自負があったのは確かだ。それはすなわち女をないがしろにしていたということでもある。
「悪かった。迷惑掛けたな」
 男はくるりと踵を返す。
「もうこれからは話しかけないことにする」
 脱衣所の鏡に映った表情はどこか寂しげに見えた。女は慌てて立ち上がり、手を伸ばす。
「ちょっと待ちなさい」
 その場を後にしようとした男の服を女の白い手が掴んだ。男が反射的に振り返ると、女は手に力を込めたまま、早口で捲し立てた。
「あのね、私こう思うの。あんたは確かにどうしようもない朴念仁だけど、私はそれくらい知っているわ。だから、こんな突拍子もないことやろうと思ったんじゃないの? つまり、私のこと特別だって思ってるんじゃないの?」
 突然の言葉の奔流に圧倒された男はしばし目をしばたたかせる。
「特別だと思っているぞ」
「認識のずれを感じるわ」
 女はむっと唇を尖らせ、服の裾をさらに握り込んだ。
 幼い頃から、ふらりと近づいてきたかと思えばするりと逃げてしまうような奔放さを持っていた。わからないと思う。自分とは違うと思う。特別だと思っている。その感情に名前を付けるとするならば。
「じゃあ、俺はお前のことが好きなのかもしれないな」
 男の言葉が時を止めた。
 女は目を限界まで見開き、口をぱくぱくと動かしながらも言葉も出せない様子だった。
 あまりの反応に男が「お、おい」と肩に手を触れた瞬間、女は思い出したかのように声を上げた。
「はああああ? あんた恋愛なんてしたことないって言ってたじゃない! 今更何言ってんのよ!」
 思わず手を引いた男は、照れる様子もなく「確かにそうだが」と言う。
「今したんだ」
 顔色一つ変えない男に、女は「ばかじゃない」と呻いた。
 男はまっすぐ女を見つめ、口を開く。黒い瞳の奥に自分の顔が見えた。
「お前のことが好きだ」
 その言葉に嘘偽りが無いことは明らかだった。なおさらタチが悪いと思う。
 この気まぐれ男の明日の気持ちは女にはわからない。それでも、十七年間握ってきた手綱を離すつもりだけは無かった。だから、そっぽを向いたまま服を掴んでいた手を離すと、男の固い手を握った。
「仕方ないから付き合ってあげるわよ! あんたは私がいないとどうしようもないんだから」
 手から伝わる体温は、少しだけ温かかった。


 脱衣所のドアを開けようとした手を男が制す。眉をひそめる女とは対比的に、男は爽やかかつ清々しい笑みを浮かべていた。
「よし、もう一度やってみよう。今度こそ本番だ。俺はドアの外で三分待つからラッ――」
「あんたって、ほんっと最低ね!!」

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